交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
宇野功芳指揮日本大学管弦楽団
81/06/20
GRAND SLAM GS-2000

 これは学生オーケストラによる演奏である。「はじめに」で述べたように私は楽器は全くといっていいほどできない(ハーモニカとリコーダーが吹ける程度の)人間だが、「学生オケ」には思い出がある。私は院生時代に学生会館の管理人というアルバイトをしていた。大した仕事ではない。各部屋の鍵の管理(貸し出し)をして、閉館時刻が来れば全ての部屋と玄関の鍵を閉めるというものである。(平日は17時の引き継ぎから閉館までなので閉めるだけだが、土日祭日は開館も行う。)それまでの間、私は管理人室に居さえすれば良く(大抵は音楽を流しながら読書をしていた)、時給も悪くなかった。さて、平日の閉館時刻は21時だったのだが、他のサークルはそれまでに練習を終えて出てくれていたので、こちらは室内を点検してから鍵をかけるだけで済んだのだが、パート練習をしていたオーケストラだけは私が閉館を告げてからようやく片付けに移るため、いつも待たなければならなかった。短気な私はそれを苦々しく思っていた。(ちなみに、金子建志の「ブルックナーの交響曲」によると、この交響楽団は朝比奈の指揮でブル8を演奏したことがあるらしい。)ところで、管理人のバイトは代々農学部の作物学と園芸学の研究室で受け継がれていたのだが、学生会館とは別に通称「山の上練習場」という施設にもあった。そちらの閉館はたしか22時だった(私はたまにピンチヒッターを引き受けた程度なのでよく憶えていない)が、やはりオーケストラは管理人に迷惑をかけていたようである。私の後輩(現在フィリピンに在住)が「閉館時刻を過ぎているので早く出て下さい」と言ったところ、「わかりました」と答えた直後に「せーの」で再度弾き始めたのである。彼はマジキレして「お前ら俺の言うたこと聞いとらんかったんか!」と一喝したそうだ。非常識にも程がある。怒るのも当然だ。
 そんなある日、事件は起こった。大学事務局が安全上の問題から閉館を30分繰り上げると通達したところ、オーケストラの団員が噛み付いたのである。ここから先は「山の上」を担当していた別の後輩から聞いた話であるが、何でもオケ側は「繰り上げを撤回しろ。さもなければこれまで行ってきた入学式と卒業式での演奏を止めさせてもらう」などと脅迫に出たらしい。(私は院に進学したので卒業式には出ていないが、入学式では確かにオケの生演奏があった。「マイスタージンガー前奏曲」だったか「威風堂々第1番」だったか、その両方だったか、大昔なので忘れてしまった。)ところが、これに対する当局の回答は「止めたきゃどうぞ」という仁瓶もないものだったそうだ。勘違いの中でも自己満足のためにやっていることが他人の役に立っていると思い込むほど滑稽なものはない。私の後輩には他に吹奏楽部のメンバーもいたが、この話を聞いて「連中は思い上がっている」「奴等の代わりに演奏したい団体はいくらでもある」とバッサリ。私も溜飲が下がった。彼らからはエリート意識というか他のサークルに対する優越感が少なからず感じられたが、それが木っ端微塵に打ち砕かれたのだから。そこまで啖呵を切った以上、引っ込みがつかなくなって式典での演奏をボイコットすればいいものを、スゴスゴと交渉の場から引き下がって(繰り上げを飲んで)しまったのだから情けない。
 エリートに対する劣等感というか敵意丸出しの典型みたいな文章だが、こういうのを私に書かせたらお手のものだ。暴走ついでに書くと、私は音楽指導のため開発途上国に赴いた、あるいはこれから赴かんとする人間を少なからず知っている。彼らのほとんど(全員?)が音大の卒業生で、もちろんその一部なのだが鼻持ちならぬ連中がいた。皆を笑わせようとして俗にいう「ピンクジョーク」(←今はセクハラがうるさくなっているので、立場上口にできない)の類を披露した途端、もの凄い形相で「下品すぎる」と噛み付かれたことがある。まあ育ちの悪さも品格の欠如も自認している私としては必ずしも不当な評価ではなかったという気もするが、その時は「『すぎる』はないやろ、『すぎる』は」と思ったことも事実である。農家で生まれ育った私は拾い食いもする(食べ物を粗末にしたら怒られた)し、生き物も必要に応じて(あくまで作物に害を及ぼしている場合に)容赦なく殺す。ええとこのお嬢さん&お坊ちゃんの目には、こんな私が野蛮人そのものに映ったのだろうと今になって思う。(帰国後「野生児」などと言われたこともあるが、自分ではまだまだだと思っている。)ここで「ショスタコーヴィチの証言」に書かれている作曲家の言葉を思い出したのだが、私だって「よかろう、わたしが恐竜でもかまわない(以下略)」と言いたい気分である。(「恐竜」は「別の世界からきた生物のごとく理解しがたい代物」の暗喩として使われている。作曲家は話している最中に怒りがこみ上げてきたのか、明らかに暴走口調になっているが、私は読んでいて微笑ましくなった。)もう1つ思い出したが、マーラーの第5交響曲の第3楽章が素敵だという音大出身者に対し、私が「そうかもしれないが、第4楽章の方が素晴らしいと思う」と返したら、アンタはまるで音楽が解っていないというような言われ方をしたことがあった。その後も話がどうも噛み合わかったので変だと思っていたところ、先方があの絶品というべきアダージェットを第3楽章と勘違いしていたことが判明した。(5楽章構成ということすら知らなかったんじゃないか?)そういえば、砂川しげひさの「コテン氏の音楽帖」でも、FMの特別番組で音大生3人組にクラシックのイントロクイズを出題したところ、それこそ通俗名曲ばかりにもかかわらず正解が10問中3問しかなかったという実に恥ずかしいエピソードが載っていた。技術はもちろん、知識でも敵わないだろうが、クラシック音楽を愛する心においてクラヲタは決して負けてはいない。完全に脱線した後も暴走しているのでもう止める。
 さて、ようやくにして本題に入る。当盤の存在を意識したのは「ブルックナー・ザ・ベスト」に出ていたサイト運営者(の1人)のコメントを目にしてからである。

 そうそう、史上最大のトンデモ・ブル盤は、もちろん、宇野功芳
 指揮日大管弦楽団81年ライヴ(GS2000)に決定!(交響
 曲第4番「ロマンティック」ノヴァーク版、一部改訂版)

私も「恐いもの聴きたさ」だけで「トンデモ盤」に手を出すほど愚かではない。(というより、自主製作盤なので一般の販売ルートには乗っていなかったのではないか?)しかし、2004年9月にネットオークションに出品されていた当盤に野次馬入札して入手する羽目に陥ってしまった(出品価格1200円でそのまま落札)。
 ついでに他のネット評(通販サイトのもの)も一部載せておく。

 宇野功芳氏が初めてフル・オケを指揮した貴重な記録。正に、ここから
 ユニークなオーケストラ指揮者宇野功芳氏の歩みが始まったと言える。
 『やりたいことはすべてやり尽くした超個性的解釈』と平林直哉氏。
 確かに奇演中の奇演。オケが指揮者を信頼しきって火だるまになりながら
 突き進むその演奏ぶりは、大変な説得力があり、唖然とさせられる

 録音:1981年6月20日、昭和女子大学人見記念講堂。ライヴ。
 解説:平林直哉(当時第1ヴァイオリン)。オケ・メンバー一覧を含む
 当時の資料付き。GS-2002同様、技術を抜きにすればプロ・オケの
 演奏にも匹敵する音楽性を持った演奏。こちらもブルックナー・マニア
 なら所持して置きたいアイテム。

ということで、アマチュアの演奏(トラック1の「フィガロの結婚」序曲でどの程度の腕か判る)であるから「下手糞」という理由で当盤を貶しても何にもならない。その先にあるものを聴いて文字にしなければ。
 上で「一部改訂版」とあるからには、クナッパーツブッシュ顔負けのハチャメチャ演奏を繰り広げているのかと思いきや、始まりは普通である。改訂版の指示に従い第1楽章1分24秒(31小節)でテンポを落とし(←浅岡弘和による)、1分34秒の弦も1オクターヴ上げている。これらも前例があるので驚かない。が、1分45秒〜は初めて聴いた解釈だ。通常なら全開になる金管を抑え、2分05秒で初めてフォルティッシモに持っていく。極めて劇的なやり方だ。以降のテンポの揺さぶりも、ここまで激しくやったものを私は聴いたことがない。 コーダで破綻を恐れず全力で吹き続けるブラスは感動的だ。この楽章は基本的にテンポが速いので、少々のミスがあっても勢いで聴けてしまう。
 しかし、続く第2楽章は聴き通すのが少々辛い。(響きの厚い箇所が多くを占める前楽章とは異なり)木管が交替で主題を吹くところはヒヤヒヤの連続だし、それ以上に弦のしょぼい音が耳に障る。(艶のない音色は、私がバイト中に聴いた学生会館内の練習を思い出させて不愉快だった。楽器の質もあるだろうが音程が悪い。)とはいえ、先述したように技量のなさは措く。意外だったのは、ここで改訂版のオーケストレーションの改変が全くなかったこと。第1楽章のコラールでもティンパニを加えていない。「どうせなら完全に改訂版を使って、そのうえで自分のアイデアを加えれば良かったのに」と思った。
 しかし、指揮者がそうしなかったのには訳があったのだ。改訂版だとスケルツォ主部が尻すぼみになってトリオに移るが、それを嫌ったのだ。そしてやってくれました! 解説執筆者の平林直哉(上の転載箇所にあるごとく、当時の第1ヴァイオリン奏者)によると、この楽章のトリオ直前で指揮者が通常の倍以上の遅いテンポを取ったが団員は混乱することなく指揮棒に付いていき、この瞬間にオーケストラと指揮者が一体になったと確信したのだという。その部分は本番でも聴かれる。4分22秒からのティンパニ付加はもちろん指揮者のアイデアだが、ブルックナーの全交響曲を思い返してみても、これほど凄まじく鳴る部分はない。(8番4楽章冒頭の「ダダンダダンダダン」はもちろんのこと、ハイティンクによる9番1楽章のラストすら凌駕していると思う。)ここを聴くためだけでも当盤を入手する価値はある。
 終楽章冒頭は崩壊寸前で、もしかして混沌を表現しようとしたのかと思ったが、さすがにそんなことはないだろう。(終楽章冒頭でシンバルは鳴らないが、3分少し手前でティンパニ付加がある。これも「宇野版」だろうか?)この楽章は完全に一線を踏み越えてしまっている。失うもののないアマチュアだからこそ許されるのだろうが、ここまでやれば立派である。拍手を送りたい。ただしエンディングには不満がある。20分34秒からの大音響は着地さえ決まっていたら文句なしだったのだが、終止がパートごとにバラバラであるため、結果としてデクレッシェンドしながら終わったように聞こえてしまう。あまりの喧しさで他のパートが聞こえなかったのかもしれないが、事前にそうなることを想定して、最後の「ジャン」の合わせは徹底して練習してもらいたかった。残念!(2007年8月追記:この件に関してブックレットに掲載された平林の回想録中に事情説明があると今頃になって気が付いた。このラストの2拍3連符を宇野は練習では鋭角の三角形を描くように振っていたのだが、本番ではほとんど駄演、いや楕円になっていたため瞬間的にオーケストラは指揮者との意思疎通が不能になってしまったとのこと。なにゆえに彼がそのような奇妙な振る舞いに出たのかは全く謎だが、もしかすると天体の運行 (惑星の公転) を思い浮かべていたのであろうか?)
 最後に、このテンポゆさゆさ(基本テンポ不明)の演奏は私の好みでは全くないことを述べておく。以降は、再び周辺事項をダラダラと書くつもりだ。

周辺事項再び(そして、またしても暴走)
 宇野は1988年にも新星日本交響楽団とこの曲を演奏&録音しているが、「名演奏のクラシック」の企画で彼と対談した作家の宇神幸男は、88年の演奏に対して「世界水準を抜く演奏」「比較を絶している」「宇野先生のブルックナー傾倒の結実というべきで、これは文句なしにベスト盤」などと歯の浮くような褒め言葉を連発している。ご機嫌取りに終止した宇神の評価が全く信用に値しないのは言うまでもない。
 ブルックナーではないが、新星日響との「英雄」に対する許光俊のコメントがCDジャーナル98年6月号に載っている。彼は「こりゃちょっと、文章のほうも割り引いてうけとらなくっちゃな」と思ってしまったという。「彼の評論家としての仕事を傷つけているのではないか」とまで述べていた。やはり新盤の方も技術的なレベルは推して知るべしということであろうか。ついでに書くと、当盤の解説にもあるように日大管のOB&OGで結成されたのがアンサンブルSAKURAであるが、この室内オーケストラもまた毀誉褒貶の非常に激しい演奏をするらしい。どうやら宇野のディスクはみなアンサンブルに難のあるものばかりのようである。それゆえ、「音楽性」「芸術性」を売りにしなければ救いようがないのだが、彼が事あるごとにカラヤンや小澤その他の指揮者による技術的には文句の付けようのない演奏を「きれいごと」などと貶したがるのは、腕のあるオーケストラを振りたくても振らせてもらえないという劣等感や妬みの裏返しではないかという気もする。
 ここで88年盤に戻ると、あくまで客観的な批評をネット上で見つけた。筆者によると、宇野は第1楽章展開部の直前からふと加速し始め、一気呵成に進めていくという(要は当盤と同じ)スタイルを取っているようだが、それについて「彼は評論では『悠久のブルックナーに極端なドラマ的アッチェレランドは逆効果だが、第3楽章までが深みに欠ける第4だけは別』となどと都合よくかわしており」とコメントしている。つまり言い訳を用意しながら演奏に臨んだという訳である。確かに宇野はあちこちで4番の曲目解説に「第4楽章以外は深みに乏しい」というようなことを書いている。私が槍玉に挙げたいのはまさにその点である。「深みがない」と勝手に決めつけるからこそ(楽譜から「深み」を読み解く能力がないから)、当盤のようなB級演奏をしたくなるのではないか? 「B級」というのはもちろん技術のことではない。下手な小細工を弄することで原典版の美しさを台無しにしていることに対してである。現にヴァント(特に最後の録音)やチェリビダッケ(MPO盤)は原典版使用でも神秘的で十分に「深み」のある演奏を成し遂げているではないか。(まあチェリのは反則スレスレだが・・・・)既に述べたように、私はドタバタ芝居のような演奏を「エンターテイメント」として鑑賞することはできるけれども、「芸術」としての存在価値を認めることは不可能である。「まあ、宇野盤をベストだと言うのは勝手だが、まちがってもカラヤンやショルティよりも優れているなどとは言わないでもらいたい」とこっちの方から言いたいぐらいだ。(実際に88年盤を聴いていない私にはそう断言することができないのが悔しくて仕方がない。)

おまけ
 宇野は「クラシックの名曲・名盤」で、クナッパーツブッシュによる8番終楽章を聴いて(「それまで皆目わからなかった」)ブルックナーの魅力が突然わかったと書いている。ヴァントが来日した2000年の秋に、NHK-教育テレビの「芸術劇場」にゲスト出演した時も同じことを言っていた。その第3主題を聴いて突如開眼したらしい。(「遍歴」に書くつもりだが)4番のさわりを聴いた次の瞬間に「ええ音楽やなー」と思った私とはまるで違う。理解できない。それはともかくとして、改訂版を好んで使ったクナの8番からブルックナーに入っただけに、やはり他の曲でも宇野はケレンというか厚化粧のようなものを施した演奏でないと満足できない体質にさせられてしまったのかもしれない。(私にとってのショルティ6番と似ている?)それが「4番は浅い」発言の根底にあるような気がしてならない。ただし、4番の改訂版はあまりにも改竄が酷いため、彼も仕方なく原典版に軍配を上げざるを得ないけれども(それでもクナ盤の演奏自体は褒めている)、自分が振るときは何かやらないと気が済まないのだろう。言いたいことは、彼のブルックナー入門の仕方に問題があったのではないかということだ。繰り返しになるが、私は宇野やクナの「エンターテイメント」的な演奏のどこを捜しても、ヴァント盤やチェリ盤から聴かれるような厳かさ、気高さといったものを聞き出すことはできないのである。

2005年12月追記
 上の「エンターテイメント」呼ばわりであるが、実はこれも他人の受け売りである。例の「悪魔の店主」(海賊盤ネット販売業者)から送られてくるメールマガジンの(本題である青裏盤宣伝文の前に置かれていた)「マクラ」はいつも大変面白いものだったが、ある日届いた分では桑田佳祐が叩かれていた。「いかにも『大衆のツボを心得てますよ』という曲の数々には時代の真新しさが輝くところは一つも感じられません」とのことで、「桑田氏は前進を続ける人だと勘違いしていたようです。基本は日本人に根差した土着性。盆踊り、音頭の類だと思います。」のように落胆の表情が文面に滲み出ていた。(ついでながら、「浜崎あゆみや小室くんのような、私と接点が見出せないような人はこのさい、どーでもいい」「システムの香りしかしないチャートに上っている他の曲は論外」らしく、「わずかでもアーティスト色の残る桑田氏の受容現象」を批判するのが目的だったようだ。)けれども「モーニング娘。」(←「まる付けんのヤになってきた・・・」という注釈には私も同感)は嫌いではないそうだ。「彼女達及びつんくがやっていることは音楽ではありません。エンターテイメントです。」というのがその理由である。(私にはよく解らないが「人の音楽のソウルから生まれたものではないという点では、R&Bの様式だけをなぞった宇多田某その他もろもろもまた同様」ということらしい。)
 ここまで節操なしに引いてきたが、本当に採り上げたかったのは以下の台詞である。

 誰かさんのように「音楽」を気取らず、あからさまに
 自己肯定している姿に好意を持っているだけなんですがね。

なので、私もコーホー先生に対し「どうぞ今後もエンターテイナーとしてお好きなように自己肯定してて下さい。間違っても『芸術』だけは気取らないように。」と言わせてもらってこの追記を閉じるとしよう。(最近出た「すごすぎる世界」、ちょっとは気になる。)


交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
宇野功芳指揮新星日本交響楽団
88/01/16
Art Union ART-3009

 上記「周辺事項再び」の終わり(の括弧内)に「悔しくて仕方がない」と書いた私だが、もちろん本心では「誰が買うか」と思っていた。箸にも棒にもかからない男(宇神)が絶賛しているような演奏にろくなものがあった試しがないからである。ブルックナーを愛する者は、そのぐらいは知らなくてはだめだ。
 ところが、ある日風向きが変わる。某掲示板の「なぜ宇野功芳は嫌われるのか?」というスレにて以下の書き込みを目にしたからである。

153 :名無しの笛の踊り:2007/09/21(金) 00:35:49 ID:Tu6uHNdu
   諸井はかつて、宇野指揮のブル4のCDの月評で
   「世の中には自分とこんなにも考えが違う人間が存在するのか」
   「ドン・キホーテ的誇大妄想狂」
   「団員にとっては地獄のような時間だったに違いない」
   などと酷評していたね。

上の「諸井」が誠を指しているのは十中八九間違いないとしても、続く「宇野指揮のブル4」は冷静に考えたら新星日響との88年録音とは限らないのだが、なぜか急に聴いてみたくなった。例の「怖いもの聴きたさ」である。そこで、たまたまYahoo! オークションに出ていた品(開始価格1300円)に入札し、無競争落札した。(これまで同ルートで日本人指揮者によるブルックナーCDを複数入手している私だが、実は一番興味があるのは飯守&東京シティ・フィルの4番である。終楽章は指揮者オリジナルによる打楽器付加など聴きどころが非常に多いらしい。安価で出品されることがないのは残念である。)
 ところで先に入手した日大管盤(81年)だが、既に述べたように私はエンターテイメントとしてなら十二分に価値を認めている。あのフローレンス・フォスター・ジェンキンス(Florence Foster Jenkins)女史による "The Glory of the Human Voice"(BMG発売の国内盤タイトルは「人間の声の栄光????」)にも匹敵するほどに。かつて私はその冒頭に収録された「夜の女王のアリア」(魔笛)をNHK-FMで聴いて悶絶したことがあるが、コーホー先生のオーケストラ指揮者としてのデビュー盤も「悶絶度」(マドレデウスのアルバムを評価するため、横浜のKさんにより2007年に考案された指標)では決して負けていない。それゆえ「世紀の迷盤」の交響曲部門No.1として推したいくらいである。
 しかしながら、芸術としては全く取るに足りないものと見なしていることは今更繰り返すまでもない。なので「満塁ホームラン」よりは "GRAND SLUM" という名のレーベルからリリースされる方がはるかに相応しいと昔も今も思っている。とはいえ、お笑い路線を突っ走ってしまったのは学生オーケストラの技量不足によるところが大きいのも事実。やはりある程度以上の実力を有するオケとの共演によって宇野の芸術性(別に音楽性でも精神性でも良いが)を判断しなければフェアではないとは考えていた。これまで新星日響の演奏を聴いたことは全くないけれども、まあプロの団体であるのは間違いないからその点は大丈夫だろう。
 カップリング曲は81年盤と同じ「フィガロの結婚」序曲だが、それを数分聴いただけでこの予想が正しかったと判明した。弦の音程が安定しているし、不快な音色を立てないのは何といってもありがたい。クレンペラーのごとく鈍行列車級のスローテンポで進むが、終盤で突如快速電車に乗り換え、コーダではティンパニが暴れ回る。旧録と同じく非常にユニークな解釈である。このチンドン屋ぶりには「アーノンクールのことをどうのこうの言えた義理か」と嫌味の一つぐらい言いたい気分だが、ここは我慢しよう。
 いよいよ本題の「ロマンティック」であるが、スズメバチの大群が押し寄せてくるような弦のトレモロにいきなり耳を奪われる。ヴァント&BPO盤のライナーにて最弱音によるブルックナー開始を「音楽をスポイルしている」と批判していた宇野にすれば当然の処理といえるし、私としてもその方が好ましい。81年盤と同じく第1楽章は改訂版をベースにしており、1分17秒(31小節)からのスローダウンや1分24秒の弦のオクターヴ上げが聴かれる。1分39秒以降が抑え気味で徐々に盛り上げていくのも同じ。同種の演奏で音質良好のステレオ録音ということなら昨年(2006年)買った内藤&東京ニューシティ管盤も該当するが、あちらのように弦や金管にパワー不足を感じることがなかった分だけ印象は上である。ところで当盤のブラスはここぞという時には鳴っているものの、4分52秒からのブルックナー・リズムは控え目で、ヴァイオリンによる内声部がハッキリ聞こえたのは面白かった。(旧盤とは異なる解釈である。)
 さて、ここまでは概ね満足できていたのだが、9分少し前からのスタスタ加速を聴くとやっぱり萎える。まさにフルトヴェングラーばりの「狂ったようなアッチェレランド」ではないか。こういうのはブルックナーでは「禁忌」であるはずなのに、なぜか4番に限り「アリ」というのが(先の「周辺事項」にも記したように)宇野の持論のようだが、そうなると彼の「音楽性」(別に・・・以下r)とやらも所詮は「御都合主義の産物」に過ぎないと考えざるを得ない。が、この楽章で他に気に触ったところは特になし。プロ集団だから当たり前だが81年盤よりも圧倒的に充実している。
 それが最も顕著なのが低弦の活躍する場面の多いアダージョ。貧相としか言いようのない響きのため、あたかも酸性雨の影響で葉の大部分が枯れ、そして脱落してしまった森林の中にいるようなやるせなさを感じてしまった旧録とは異なり、弦に艶とボリューム感があるため落ち着いて聴ける。なるだけ真っ当な解釈を心懸けていることもあり、全楽章中で最も出来が良い。
 ただし、最も聴き応えがあったのは第3楽章。理由はやはりスケルツォ主部終わりでの2度(4分17秒〜、および11分15秒)の大減速ならびにティンパニのド派手な立ち回りである。なお指揮者の解釈自体は大胆さを増しているものの、旧盤の雑なアンサンブルに起因する修羅場感というか壮絶さは減退した。(先の「フィガロ」も同じ。)よって、ここはそれぞれに魅力があるといえるだろう。
 休みなしで突入する終楽章は、出だしこそ猛烈な勢いで突き進むけれども1分過ぎでブレーキを踏み、ノロノロテンポによる主題提示と続く。おそらくはスケール感の表出を重んじたのだろうが、ならば徐行運転で始めるべきではなかったか? バランス無視にも程があるんとちゃうかと抗議したくなってくる。(ところで当盤の解説中に「プレイ・バックで第4楽章の冒頭を聴いた専門家が『これ、ミュンヘン・フィルか』と首を傾げた」というエピソードが紹介されている。それを読んで私は呆れ返った。全然似てへんぞ! その専門家とやらが何者かは知らんが、執筆者の中野雄はどうして一刻も早く耳鼻科に向かうよう忠告しなかったのか? また、その見解に何の疑問も感じなかったとしたら彼ももちろん同行すべきであった。もう手遅れだが・・・・とはいえ中野は宇野との共著本を何冊も出している間柄、つまり「おともだち」ゆえ、単に胡麻擂りのためだけに持ち出したという可能性は小さくない。)以降もこれ見よがしなテンポいじりに辟易させられるばかり。サービス精神満点の演奏とはいえなくもない(この楽章限定ながら少し前に手に入れたスタインバーグ盤と似ているような気もしないではない)が、あまりにも独善に陥ったテンポ設定ゆえに81年盤同様これを「芸術」として扱うには伝導度が小さすぎる(=抵抗が大きすぎる)と言わせてもらう。ラストもティンパニの炸裂で何とか格好が付いたようには聞こえるが、実際には縦の線の揃いがまるでなっていない。よって統率力にも疑問符が付く。指揮者は「クナッパーツブッシュだってそうだったのだ」とうそぶくかもしれないが。
 ここで阿佐田達造が「クラシック名盤&裏名盤ガイド」(洋泉社)にてカラヤンおよびバーンスタインの振ったシベリウスの第2交響曲(私の考える二大超名演)を非難する際に持ち出した四字熟語、すなわち「我田引水」が頭に浮かんだ。さらに、田に(手段を選ぶことなく)水を引いたまでは良いが、以後の管理が杜撰だったため稔ったのは結局タイヌビエ(強力な水田雑草)ばっかりという無惨な光景が目に浮かんでしまった。さすがにこれは言い過ぎかもしれないが、「こういう演奏を一度ならず二度までも繰り広げてしまうような御仁には間違っても『ブルックナーの本質』など口にしてほしくないなぁ」というのが私の偽らざる心境である。(ただし、彼に「精神性」その他を語る資格があるか否かについては保留とする。その点で彼がこだわりにこだわっているベートーヴェンを未だ聴いていないから。)もっとも御本人は至って大真面目なようだから、これ以上突っ込むのは止めにするが、宇神や中野をはじめとする取り巻きの連中には言いたいことがある。まず前振りから。
 誰か(註)のエッセイ本に載っていた話である。(註:大昔に借りた本ゆえ不明。何となく椎名誠か山下洋輔のような気がしているが、大穴で中上健次の可能性もある。)執筆者が訪欧(これもドイツかフランスか、それとも他国か定かでない)した際、現地人からモダンバレエを観に行かないかと誘われた。あまり気は進まなかったが、「絶対面白いから」と説得されたため渋々承諾。で始まってみれば、驚いたことに舞台上のダンサーは性別を問わず全員が全裸で何とも怪しげな踊りを披露している。さっぱり訳が解らんままに公演はクライマックスを迎え、スプレー缶を持った女が主役(男)の局部に赤い塗料をプシュッと吹きかけたところで終わり。幕が下りる時、連れは笑いながら押し黙ったままの作家に囁いた。「お前達日本人には俺達の芸術の素晴らしさは理解できないだろう」と。当盤を褒めそやしていた後方支援隊(またの名を「功芳親衛隊」)のメンバーに対し、その時に彼が心の中で呟いたという次の一言を贈って本ページを締め括ることにしたい。

「バカか、おマエらは」

4番のページ   指揮者別ページ