交響曲第7番ホ長調
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮ニューヨーク交響楽協会交響楽団
35/01/27
(MP3ファイルのダウンロード)

 当サイトのどこかのページに(凶暴な演奏が期待できるという理由で)「トスカニーニに演奏して欲しかった」などと書いた記憶があるけれども、まさか本当にブルックナーの録音を残しているとは知らなかった。J.F.Berky氏(www.abruckner.comのオーナー)が送ってくれたニューズレター(5/27付)に "Toscanini Bruckner 7th recording" に関する情報と入手方法が掲載されていたため、早速ダウンロードしたのがこの音源である。(彼のサイトのEditor's Newsletterコーナーにもリンクが貼ってある。)ただし有形の媒体ではないから番外扱いとする。
 この演奏は、かつてAnsfeldenという英国のレーベルから青裏(ANS-127)としてリリースされたらしい。Berky氏のサイトには "The limited edition CDR appears to be sold out" とあるが、奇遇なことにそれが少し前(5/20)ヤフオクに出品されていたので興味津々成り行きを見守っていたところ、2500円でスタートした品が最終的に11500円まで跳ね上がってしまったのでビックリ仰天! ロハで手に入るというのに・・・・・
 カーネギー・ホールにおけるライヴということだが、さすがに70年以上前の録音だから音質は時代相応である。同年代では他にフルヴェンのベト5番や9番も持っているが、それらよりも劣るという印象である。特にジリパチ雑音が耳に付く。のみならず第124楽章には欠落まであるということで覚悟の上で再生してみたところ、第1楽章はあと十数秒というところでバッサリ。ガクッと来た。第2楽章はクライマックスの1分少し後に数秒抜けている。そして終楽章は4分49秒で落ちた後、中途半端なところから再開する。これが最もこたえた。ついでに書くと、同楽章6分44秒でのワープはドロップアウトではなくカットだが、これも意図不明としか言いようがない。どれもこれも受けたダメージは決して小さくなかったため、最初は別音源を用いた修復も本気で考えた。そうなるとパッチに使用するのはモノーラル音源ということになる。いっそのこと彼の仇敵の録音(同一条件=ライヴ収録ということなら選択肢は51年カイロ盤のみ)を挿入すれば、あの世での和解の手助けになるかもしれないと一瞬アホな妄想まで抱いてしまった。が、音質劣悪の演奏にそこまで手間暇かけるのもバカらしいと思ったので止めた。何にせよ、この点は割り切って演奏評の執筆に取り組まなくてはならないのは当然であろう。
 他に気になったのが使用版である。"1885 Version with some Modifications by Bruckner. Ed. Albert Gutmann" ということである。その編者名に馴染みはなかったけれど、遅まきながら7番の改訂(改竄)作業に携わった人物と知った。その名の通り何か良いことをしてくれているのだろうか?
 まず改訂版の常ながら第1楽章の主題提示2巡目の直前(1分02秒)にフライング・ホルンが入る。これは予想通り。だがハ長調に移って盛り上がるところ(4分58秒〜)で突如ティンパニの連打が加わってきたのに意表を衝かれた。これは初耳。また唯一無傷のスケルツォではティンパニが「ダンッダダン」というリズムを執拗なまでに叩いている。(ついでながら、トリオではデルマンの9番を彷彿させるような呻き声まで聞こえてきた。怖い。)この打楽器の切る啖呵は終楽章でも何度か確認できたが、それよりも第2主題をトランペットが吹いていたのが実に新鮮だった。まさに初物ずくしといえるが、おそらく一部はトスカニーニ自身によるアイデアではないかと思われる。こういうのも当時としては珍しくなかったため、特にクレームが付いたりすることはなかったのだろう。他にも耳を澄ませれば楽器の変更などは聞き出せるとは思うが、実はこれから触れたいことと比べたら些細なのである。
 アダージョの冒頭部分をここまで念入りに演奏している指揮者は他に浮かばない。のみならず、最後の最後まで濃厚なスタイルを貫き通している。オーマンディも顔負けのセカセカ尻軽テンポでサッサと終わってしまうと予想していた私は完全に意表を衝かれた。トラックタイム21分05秒に欠落部分を加えても決して長いとはいえないはずだが、時間以上に長く感じるのはメリハリを大胆に付けているためである。トスカニーニといえば、当サイトの「ベートーヴェンのページ」にも記しているように私は「気の短い暴君タイプ」といった印象しか持ち合わせておらず、どんな曲であれインテンポで演奏するしか能がない単細胞野郎だと思い込んでいたこともある。それが必ずしも正しくないと判ったのはベト5&8番39年盤を聴いた時である。ともに宇野功芳が自著で褒めていたような。とはいえ、「アウト!」と言いながらミスを犯した奏者を指さし、そのままクビにしてしまったというような逸話まで残っているため、いくら彼に心酔していた楽員がいたとしても、その冷酷非情なる人間性に疑問符を付けたくなるのは人間の情というものであろう。(今になってみると一体どこまで信用できるのかが定かでないものの、「ショスタコーヴィチの証言」に書かれていたエピソードも負のイメージが定着する原因を作ったかもしれない。)とにかく「一欠片の情も持ち合わせていない」はずの指揮者がこんな情緒タップリ型演奏を繰り広げていたとは完全に想定外だった。だから、もっと良好な音質で聞かされたら指揮者名を当てることなど絶対無理だったに違いない。
 そういえば「クラシック名盤&裏名盤ガイド」(洋泉社)のPART2「名演奏家のコレを聴け!」筆頭に置かれたトスカニーニの項を担当した新田明男は「この指揮者ほど、誤解の罠がしかけられているひともいない」と述べていた。具体的には、その誤解の元となった(代表盤とされている)1950年代の録音が「功なり名とげた老人の余生の演奏」に過ぎず、指揮者が元気だった70歳まで(第2次世界大戦終了前後まで)の演奏は後年のものと同じく快速テンポながら、その速い進行のなかに大きなカンタービレがあり(以下略)ということである。(ここでまたしてもコーホー先生を持ち出すと、Gakken Mook「フルトヴェングラー」に収められた彼と佐藤眞との対談「フルトヴェングラー vs トスカニーニ 仁義なき戦い」では、トスカニーニがインテンポ一辺倒であるというのは表面的なばかげた話で全くの誤解だという点で両者は見解の一致を見ている。)なるほど。ならば指揮者67歳時のこのブルックナーが晩年の彼とは別人によるものと聞こえたとしても何ら不思議はない。なお、先述したような数々のティンパニ付加は便所の蝿(by 平林直哉)のごとく耳に煩わしく、9番のレーヴェ版といい勝負(目糞鼻糞)といえるから、もしモノーラルでも音がもう少し良かったら(←しつこい)クナの演奏という騙りを誰かに信じ込ませることだって十二分に可能であろう。

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