交響曲第8番ハ短調
ゲオルク・ティントナー指揮アイルランド国立交響楽団
96/09/23〜25
Naxos 8.554215〜16

 トータル89分28秒は2枚組として恥ずかしくない(?)演奏時間である。(もちろんチェリは別格であるが、私が所有しているディスクで近いものとしてはジュリーニやグッドール盤がある。)が、これはノヴァーク版第2稿と比べて小節数で約10%も多い初稿による演奏なのだ。そこで、(またかと言われそうだが)例によって換算タイムを示すことにする。

 第1楽章:17:41 × 417/453 = 16:17
 第2楽章:15:14 × 288/316 = 13:53
 第3楽章:31:10 × 291/329 = 27:34
 第4楽章:25:10 × 709/771 = 23:09
 トータルタイム:80分52秒

換算後のトータルタイムはギリギリ2枚組になるかならないかであり、思っていたほど長くないので拍子抜けした。つまり、3番初稿のようなノロノロテンポではないということである。逆に言えば、この演奏時間はちっともおかしくない。(いかにインバルが非常識なテンポを設定したかが判ろうというものだ。なお、フェドセーエフ&モスクワ放送響?盤も初稿演奏のようだが、後半2楽章がスタスタで、特に第3楽章は言語道断テンポを採用しているらしいので買わない。)それどころか、敢えてこの意欲作(後述)に取り組むのであれば、当盤のように丹念に演奏するのが作曲者に対する礼儀というものではないだろうか。
 この8番第1稿について、 浅岡弘和は「オーケストレーションのワーグナー化やアダージョのクライマックスでの6打ものシンバル使用」を例に挙げて、「『第7』の成功で有頂天になったブルックナーの『気の緩み』が随所に見られる」としている。が、私の見方は少し違う。
 やはり、あの7番の後に手がけた曲だけに熟練の業というものが感じられる。第2楽章こそ「とっとと先に進め!」と言いたくなるが、それは私が2稿を知っているからであろう。冗長さは感じられない。が、第1楽章1分08秒の響きには驚いてしまう。実際にはそうでないのかもしれないが、不協和音が鳴っているように聞こえるのだ。第3楽章12分過ぎからはそのような箇所が頻発する。また、唐突ともいえるような思い切った転調も多用している。これは4番初稿以降、すっかり影を潜めていた「前衛作曲家」の顔である。(とはいえ、8番初稿にはあのような「ギクシャク感」は全くない。)7番の成功によって自信を持ったブルックナーは、自分が心の底から作りたいと思っていた音楽を再び音符に表したのだ。「気の緩み」どころではない。最初から最後まで気の張りが感じられる意欲作である。結局は周りから完膚なきまでに叩き潰されてしまうことになるのだが、もし受け入れられていたら、次の9番はどのような(当時の)「現代音楽」になっていただろう、と想像しても虚しいだけであるが・・・・
 ここでもインバル盤への否定的評価を裏返しさえすれば、そのまま当盤に対する肯定的評価になる。なので、これ以上あんまり書くことが浮かばないのだが、バッサリと切り取られた第1楽章のコーダについて少しだけ。金管による「パパーパパーパパーパパー」という音型の後でハ長調に移って派手に終わるコーダを最初に聴いた時、これは終楽章ラストの伏線だと直ちに思った。そう、ブルックナーは1楽章のコーダが全曲の終わりで再現するという形でこの8番を締めたかったのだ。それを金子建志は「ブルックナーの交響曲」にて「ブルックナーとしてはいつもの通り、神への賛美で締め括ったに過ぎない」「ともするとその場しのぎの安直なハッピーエンドと印象を与えかねない」などと書いていたが、それらは作曲者の深謀深慮に思いが至っていないゆえの浅薄な考えとしか私には思えなかった。確かに金子のいう通り、コーダのカットによって「全4楽章が明確な起承転結を備えたロマン派的な音のドラマとなった」のは事実だが、ブルックナーの最初の構想は闇に葬られてしまうことになった。(彼は我が身を切るような思いで、まさに断腸の思いであそこを切ったに違いないのだ。)ティントナーの優れた演奏によって、再びそれが陽の目を見ることになったのは喜ばしいことであるといえる。是非ともそれを念頭に置いて当盤を聴いてほしい。(←何様のつもりや)

追記
 やっぱりこんなディスク評では意欲的な初稿演奏を成し遂げてくれた指揮者に悪いと思ったので、もうちょっと書いてみる。当盤第1楽章の9分06〜10秒にかけて、ここは第2稿とほぼ同じであるが、ホルンが弱音で、あたかも遠くで鳴っているように聞こえる(9分28秒〜も同様)。どっかで聞いた覚えがある、と思っていたらヴァントの87年リューベック盤だった。まさかティントナーがそれを参考にした訳でもないだろうが、何にせよ非常に美しい。とにかく、当盤のような適正テンポで演奏されてこそ、この初稿の良さを落ち着いて味わう気にもなろうというものだ。(「美味しんぼ」のハンバーガーの回での海原雄山先生の台詞を参考にした。)改めて聴くと、それ以外にも美しい部分はいっぱいあることに気付く。改訂で除かれてしまった部分には思わず「もったいなあ」とつぶやきたくなった。極めつけはもちろん例の「第3楽章の209小節からの10小節」(8番目次ページ参照)で、ティントナー盤のその部分は私が所有する8番の全CD(ハース版含む)の中でも飛び抜けて美しい。あれを放っておかなかったハースはつくづく偉いやっちゃと感心する。逆にその美しさに気が付かなかったノヴァークの目は節穴だし、ノヴァーク版を採用して平然と構えている指揮者どもは全て「ボンクラ指揮者」ではないかと思ってしまう。と、暴言まで吐きたくなってしまう。

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