交響曲第7番ホ長調
ゲオルク・ティントナー指揮ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
97/05/06〜07
Naxos 8.554269
第1楽章を聴いて、これはハース版(アダージョで打楽器不使用)の演奏であると直観した。(聴く前にケース裏の英語を読んだりしなかった。)まさに「ハース版的」とでも言いたくなるような素朴な響きだったからである。特に金管の禁欲的だが美しい音は印象的である。15分26秒からのハ長調の部分では、「2楽章のピークでもこんな風に鳴るんだろうな」と思った。果たしてその予想は正しかった。
7番第2楽章におけるノヴァーク版とハース版との差異は、クライマックスで打楽器が入るか入らないかだけだと思っていたら大間違いである。ノヴァーク版では輝かしい頂上に向かってクレッシェンドし、その後デクレッシェンドする。つまり楽章全体が1つの山形となっている。それだけでなく、途中に急傾斜の起伏もある。これに対して、ハース版は全体的になだらかである。クライマックスが地味なのだから当然だ。私の得意分野を持ち出せば、滋賀&岐阜県境(伊吹山系)の八草峠や鳥越峠がノヴァーク版、滋賀&三重県境(鈴鹿山系)の鞍掛峠や石榑(いしぐれ)峠がハース版である。(解る人どれだけいるだろうか?)このように形が全く違うのだから、クライマックス以外でも両盤の演奏は大きく異なっていなければならない。ノヴァーク版ではドラマティックな演奏となるだろうし、ハース版使用なら全体にモノトーン(地味)であるべきだと思う。ついでに写真に喩えてみると、ノヴァーク版ではアダージョも他の楽章と同じくフルカラーなのに対し、ハース版ではそこだけ白黒もしくは(色褪せた感じの)セピア調で撮影されたという感じである。あるいは、4楽章とも「現在形」のノヴァーク版、アダージョだけ「過去形」のハース版ということになろうか。つまり、作曲者が溢れる涙を拭きながら「偉大な芸術家への追悼音楽」を(リアルタイムで)書いたのがノヴァーク版、「偉大な芸術家の思い出」を(少し落ち着いてから)淡々と綴ったのがハース版ということになるのかもしれない。
などと、ゴチャゴチャ書いてきたが、要はそれぞれの版の性格に合ったスタイルで演奏してくれさえすれば、どちらを使ってもらっても一向に構わないということである。私は7番に関してはヴァントのような「ハース版至上主義者」ではない。ということで、ヴァントBPO盤のページで述べたことを蒸し返す。やはりBPOの重厚な響きだと、どうしても粘ってしまってハース版に求められる淡々とした味わいは出ないような気がする。これに対して、ワルター盤やレーグナー盤のサラッとした響きはまさにピッタリである。(たった今思い付いたのだが、「ジャポニカ米のノヴァーク版、インディカ米のハース版」とも喩えられそうだ。「しめた、これでまた何か書けるぞ!」ってマーラーか、お前は?)ちなみに、(改訂版でなく)ハース版で録音すべき指揮者として真っ先に挙げられるのは、シューリヒトではないかと思う。ハーグ・フィルの質素な響きはハース版と相性バッチシではなかったか。もはや手遅れだが・・・・・
ではティントナーはどうなのかといえば文句なしに合格である。ハース版による第2楽章を終始くすんだ色調、じゃなかった、音色でまとめているからである。それ以上に彼が偉いのは、ハース版特有の素朴さを他の楽章でも、つまり全曲にわたって貫いているからである。この演奏をジックリ聴くと、冒頭段落で示した例以外にも、いかにも第2楽章で登場しそうな響きが既に第1楽章のそこら中に充満していることに気付く。次の楽章の予告編(あるいは前振り)みたいなものである。 アダージョは過去を描いたものであるという理由で、それだけを異質な楽章として扱っても構わないと私は考えているが、ここまで徹底して統一が図られていれば見事という他はない。
他のティントナー盤ページでも触れているが、優秀録音による響きの美しさ、左右の、そしてパートの分離の良さも特筆すべき点である。ただし、第1楽章の終わりなど、少々野暮ったさを感じるところもなきにしもあらず。したがって、スマートさを求める人にだけは薦めない。
7番のページ ティントナーのページ