交響曲第9番ニ短調
ジェフリー・テイト指揮ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団
90/05
EMI TOCE-4055

  このCDは宇野氏の解説を読むために購入していただいて差し支えない。
 そもそもなぜこの「仕事」を宇野氏が引き受けたか想像するだけでも面白い
 ではないか。氏は、幾つかの著作でテイトのモーツァルト演奏を褒めておら
 れる。モーツァルトとブルックナーをこよなく愛する氏はそれでこの「仕事」
 を引き受けたのかもしれない。歯に衣着せぬ評論はここでも健在。CDの解
 説というと青菜に塩となる方が多い中で、氏はあくまでも自説を主張、差し
 障りのないラインで「近代フランス音楽のように透明なブルックナー」と推
 薦しておられる。とにかく氏の著作、思考、嗜好をご存知の方なら、噴出し
 てしまう面白い解説文である。まるで、買わなかったらよかったのにねと言
 われているかのような…。

ちょっと長いけれど引かせてもらった。(ネット上で見つけたのであるが、当ページ執筆に使えると思って保存しておいたのである。ところが、一体どこだったか判らなくなってしまった。→追記:後にブルックナー総合サイトの投稿コーナーであると判明。)「面白い」が2度使われているが同感である。(ただし、演奏は後述するように大ハズレだから解説だけに定価1200円を払うのはアホらしいと言っておく。それ以前に、ムーティの4番、マゼールの78番とセットになった輸入盤が2000円程度で手に入る現在、わざわざ国内盤単品を買うのは余程の物好きに限られるだろう。)2行目の「なぜ」は「経済の原則に基づいて」と推察する。(飲み屋のツケがたまっていたのだろうか?)そして、「歯に衣着せぬ評論はここでも健在」には異議を唱えたい。某掲示板ではたしか「奥歯に物が挟まったような宇野の解説が笑える」などと揶揄されていたはずだが、私の聴後感想もこれに近い。とりあえず執筆を引き受けてはみたものの、いざ聴いてみたところ自分の好みからは大きくかけ離れた演奏で全然気に入らなかった。さりとて酷評するわけにもいかないから手当たり次第にお世辞を並べておいた。そんな感じである。以下具体的に指摘してみる。
 まず「試聴した結果もまことに特異な演奏ということが出来よう」で逃げの予防線を張る。(この評論家は「いえよう」「できよう」とひらがな書きにするのが常だが、ここで漢字を使っているのは明らかに調子を崩していたためと思われる。)後には「幾何学的な演奏」という意味不明の形容も飛び出す。それはともかく、テイトのやり方を「ハーモニーの上ずみだけをすくい取り」と評しているが、これがレコ芸月評で嫌いな指揮者のディスクを扱っていたならば「極めて外面的」と切って捨てていただろう。「旋律を歌わない」「重量感の全くない軽いひびき」も同様だ。ところが何だかんだ理由を付けてかわそうとする。また「全体のヴォリュームが下げられており」が彼の大ボケ(ティントナーの目次ページ参照)によるものなのかは定かでないが、そういう演奏をハイティンクやブロムシュテットでは糞味噌に貶してきたではないか!ところが、ここでも「情緒を分析した結果」のような勿体ぶった言い回しで誤魔化そうとする。そして「上品で清らかなニュアンスをまきちらし(←こういう動詞は「悪臭」なんかに相応しいんじゃないんかね?)、ついには聴いていて息を吸うのもはばかられるほどの最高のデリカシーが現出するのである」で締め括っていた。マタチッチ&チェコ・フィルの5番を「きれいごとではない素朴な豪快さが宇宙の鳴動となり、壮大な讃歌となるのであろう」と褒めていた人間が「最高のデリカシー」を持ち出すとは抱腹絶倒ものだが、もはやヤケクソの心境だったのだろうか? ちなみに、浅岡弘和は自身のサイトにて「J・テイト盤は期待していたのだが、冒頭と最初の盛り上がりのホルンが弱すぎるなどブルックナー独特の豪快さと狂躁性が全くなく、繊細さが逆に鈍く感じられる凡演だった」と当盤を評していたが、これを宇野が書いていたとしても全く不思議ではない。この際だから徹底的に糾弾するとして、「音楽評論家・宇野功芳の評価」にて「非常に悪い」という評価を付けた「無能不能不要」という投稿者による「だったらそんな仕事引き受けるな」というコメントは私の気持ちを代弁している。(2007年1月追記:ハイティンクの旧全集を「愚鈍のかたまり」呼ばわりした文章中に「ハイティンクにはスコアに書かれたmf の指定が見えないのだろうか。厳しさのまるで無い、生ぬるい音楽。」という一節を見つけたが、ならば「メゾ・フォルテも肩すかしを喰らわせるように通りすぎてしまう」ようなテイトの演奏もボロカスに扱き下ろして然るべきではないか! こんなのを、女性的リリシズムといって好む人がいるのかいないのかは知らないが、場当たり的に主張をコロコロ変えるような評論家は実にだらしがなく、一かけらの才能も感じられない。)
 さて、この評にて宇野が文字にこそしなかった(できなかった)ものの、文中に見え隠れしている彼の本音を想像してみれば、それがそのまま私の当盤評になる。第1楽章冒頭の「ラー」(0分08秒)を聴いただけで脱力してしまった。間の抜けた欠伸のようである。その後の掛け合いもサッパリ元気がない。まるで誕生直後から息も絶え絶えの宇宙を見るようだ。一向に調子が出ないままにビッグバンを迎えるのかと思っていたら何と尻軽加速までかける始末! 言語道断である。同楽章ラスト(24分19秒〜)も高エントロピーのまま推移し、徹頭徹尾盛り上がらないままに終わってしまった。(チェリ晩年の正規録音もエントロピーが高いところは高いがメリハリはちゃんと付けている。)以降の楽章も同様で、これでは塩加減のまるでなってない(=全然足りない)料理が次々と出されるフルコースのようだ。聴後に空しさと不満だけが残ったのは無理からぬことだが、次第に怒りが込み上げてきた。やる気が全く感じられない指揮者とオーケストラに対して「そんな仕事引き受けるな」と言いたくなるほどに。EMIの偉いさんも「ダメだこりゃ」と思ったに違いなく、録音がこの曲だけで終わったのはあまりに当然である。
 などと腹立ち紛れにムチャクチャ書いてしまったが、テイトはテイトなりにいろいろ考えてテンポやダイナミックレンジを設定したのだろう。ところが、それが裏目裏目と出てしまったため、感動の芽をことごとく摘んでしまう結果となった。ということで思い出したのがシノーポリのマーラーである。既に述べてきたように私はマーラー指揮者としての彼を全く評価することができない。その録音はことごとく最悪板、いや最悪盤だと考えており、中でも「復活」は「最悪盤中の最悪盤」と位置づけているのである。ところが、当盤に対しては「下には下があった」という言葉しか思い浮かばない。9番目次ページのランキングでは不動の地位を保ち続けるような気がする。これを脅かす演奏など想像するだけでも恐い。結局怒りが収まらぬままに終了。

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