交響曲第8番ハ短調
オトマール・スウィトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン
86/8/22〜29
Deutsche Schallplatten TKCC-15015

 ある8番の比較試聴ページには「悪くない演奏なのだけれど、朝比奈シンパの書いたべた褒めライナーノーツを読むとかえって演奏がマズく聞こえる。輸入盤で買えばよかった。」などと、宇野功芳による解説が完全に邪魔者扱いされている。しかし、スウィトナーの演奏の特徴を事細かに解説しており、私としては参考になる部分も少なくなかった。ただし、確かに疑問に感じた点がなかった訳ではない。まず、お得意の「本質」をここでは2度も使っている点を挙げねばならない。宇野は個性的なブルックナー演奏を歓迎していないのだが、レーグナーの場合は(独特な解釈の中にも)「ブルックナーの光が宿っており」、スウィトナーの場合も「作品の本質をあやまらず捉えた立派なもの」なんだそうだ。またしても「なんじゃそりゃ」と言いたくなった。というのは、私はこのスウィトナー盤を極めてまっとうな演奏と思っているからである。
 何でわざわざ「個性的だが本質を捉えている」などと回りくどい表現(今思いついたが、痴漢を「変態だが道徳をわきまえている」として褒めるようなものではないか?)を用いなければならないのかといえば、ダブル・スタンダードを設けて自分の嫌いな演奏家を貶し、好きな演奏家を救済するために他ならない。便利な手法かもしれないが、褒める場合にはどうしてもインパクトが弱くなってしまう。なので、この場合は最初から「正攻法の演奏」(本質を捉えているのだから他に言いようがあるまい)として、解説者も正攻法で批評した方がはるかに説得力が出てくるはずだ。なので、私はそのつもりで当盤評を執筆することにした。(もう1つの「本質」の使い方も情けない。他人が違和感を感じるような演奏でも自分にとっては許容範囲内であるという理由で、当盤を「ジュリーニやクレンペラーなどに比して、ずっと音楽の本質に迫っていると信ずる」んだそうだ。ここも見事なダブル・スタンダードである。というより、彼がそれ以外の目的で「本質」を使っているのを見たことがない。とにかく宇野の「本質」には気を付けろ! ついでだが、上の意味不明な「ブルックナーの光」以外にも「スウィトナーの表現力はいよいよ光り」が登場する。この「光」という字がよっぽど好きなのだろうか? 他にも「逸脱せず」「有機的」といった常套句が勢揃いである。)
 当盤のスウィトナーは部分的に加速や強調を行っているものの、劇性の強い8番としては殊更耳に付くほどではない。フルトヴェングラーやマタチッチ、ヨッフムといった暴走型の指揮者達とは異なり、あくまで曲相応の演出である。確かに宇野解説のサブタイトルにあるごとく「ドラマティックなブルックナー」なのかもしれないが、この曲ではごく普通にやっても独りでにそうなってしまうのだ。(むしろ劇的でない8番こそが極めて異色の演奏ではないか?)けれども、スウィトナーは激しいところでは決して走らず、むしろじっくり腰を落として堂々と歩を進める。テンポの変更もブロック単位なので非常に折り目正しく、まさにオーソドックスそのものの演奏である。(ティンパニの最強打に騙されてはいけない。)実はそういうスタイルの演奏だけにあまり書くことが思い浮かばないのだ。これでは頭でっかち(しかも頭はどーでもいいこと)のディスク評になってしまう。弱ったな。とにかく演奏も録音も極めて優秀の名盤である。(私の好みでない最後のアッサリ「ミレド」だけがマイナス。)後の(1)475番は結局のところ第1弾である当盤を超えられなかったように思う。スウィトナーはベートーヴェンの「第九」やこの曲など、スケールの大きい曲ほどやる気を出すタイプなので、名盤が生まれるのかもしれない、とふと思った。だとしたら、9番に取り組む前に全集録音が中止されてしまったのがとても残念だ。

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