交響曲第5番変ロ長調
ホルスト・シュタイン指揮ヴッパータル交響楽団
00/10/17
"0""0""0"CLASSICS TH070

 まずオケ名だが、何となしに耳にしたら「仏派樽」「仏派当たる」という文字が浮かんできそうだ。当盤の存在を知るまで私はそのような地名は全く聞いたことがなかった。ところが、少し前に買った「名指揮者列伝 20世紀の40人」(山崎浩太郎)には「エルバーフェルト(クナッパーツブッシュ、ヴァント、シュタインの生まれた街。現在はヴッパータルの一部)」という表記がある。さらに調べてみたところ、近隣のバルメンと合併して「バルメン=エルバーフェルト」になり、その後「ヴッパータル」へと改められたと判った。早い話、これは生まれ故郷に戻ったシュタインの凱旋公演を収録したという訳である。しかしながら、既に当サイトのあちこちに記しているようにシュタインが5番の最長演奏時間を記録している、および終楽章が30分を超えているという記載をネット上で目にしても私は信じる気にならなかった。既発の46番がそれぞれ64分台、55分台という常識的時間に収まっていたからである。ところが通販サイト2店の宣伝文にはこうあった。

 近年病のためキャンセルが相次ぐシュタインだが、待望の最新
 ライヴが登場。彼の音楽は従来の堅実主義から明らかに変化し
 てきており、今回はチェリビダッケを越える超スロー・テンポ
 の演奏。意識的にか主旋律と伴奏旋律をずらしたりするなど、
 凄味のようなものまで漂っている。何かの境地に達した感のあ
 る彼の完全復活をぜひ望みたい。音質も良好。

 病に倒れ、再起不能が伝えられるが惜しい。質実剛健だが、重
 さがなく、粘らない。ドイツの指揮者の新しいスタイルを生み
 出したともいえる巨匠の名演集。病後のブルックナーの不気味
 な遅いテンポは異形の怪物を思わせる奇演。

ということで、どうやら真正演奏らしいと判ってみれば、「そんな『奇演』なら聴かずばなるまい」という使命感が頭をもたげてきた。ただし少々気になることがある。先に「凱旋公演」と書いたけれども、あるいは誰かが療養中の指揮者をそそのかして、あるいは無理矢理に引っ張り出したのかもしれない。当盤と近い時期には特にめぼしい録音が残っていないようだから、この客演が却って彼の指揮者寿命を縮めることになったとしたら心が痛む。もし録音で儲けようという魂胆を持っていた人間の仕業だとしたら、90歳間近のヴァントを日本に招聘した音楽事務所に対する許光俊の批判どころではない。まさに「死の商人」である。(と勝手に憤ってどうする?)戻って、当盤はヤフオク2度目の入札で手に入れたはずだが、確か2000円強での無競争落札だったと記憶している(消えてしまったので正確な値段は不明)。95分43秒というトータルタイム(ただし楽章間インターバルおよび約90秒の終演後拍手を含む)には誰しも目を疑うだろう。チェリの各種MPO盤と比較すると、第2楽章(3〜5分ほど短い)を除いてトラックタイムはいずれも長くなっている(既に述べたように圧巻は正味約31分の終楽章)。会場ノイズが時折聞かれるものの音質自体は極めて良好である。
 第1楽章冒頭のピチカートによるノロノロ歩みから既に尋常ではない。1分36秒以降のトランペットのファンファーレはいつ止まってしまうかとハラハラさせられるほどだ。(この種の感覚を味わったのはバーンスタイン&NYPによる「復活」新盤のラストを聴いた時以来かもしれない。チェリは遅いながらも少しずつ前進していることが確認できる。)この点に関していちいち言及していたら当ページ自体も一向に進まないので触れないことにする。何だかんだ言いながらも、この楽章ではオケが指揮者の棒に必死で食らい付いていったのか(それが目に浮かぶようだ)大きな乱れもなくコーダを迎えることができている。問題はアダージョだ。
 出だしからしばらくは普通。先述したようにチェリよりも速いのだから違和感は全くない。ところがだんだんと怪しくなる。ここから一気に盛り上がるという所から(5分25秒〜)、それまでのテンポを踏襲している弦に対して主題を吹くトランペットが大きく出遅れる。もしかしたら、指揮者がここで間を取るよう指示を出したにもかかわらず弦の方が見落としたのかもしれない。いずれにせよ、このズレは収まるどころが拡大する一方で、トランペットが途中から音量を落として何とか合わせようとしたものの、その努力の甲斐もなく弦はラッパが吹き終わる前に次の小節に移ってしまっている。(結果的にブラスは丸々1小節分を職場放棄している。)ほどなく完全瓦解を迎える。アーメン。この数十秒の混沌からは思わずワーグナーの楽劇(何だったかな?)の冒頭部分を思い出してしまった。とにかく滅多に聞けない代物であることは確かだから、マニアにとっては貴重なコレクションアイテムといえる。そうでない人にとってはやはり単なる快演、じゃなかった怪演か? ただし、それ以後はテンポを元に戻したお陰で(同箇所のも再現部含め)崩壊せずに済んでいる。後半楽章についても問題点を指摘していけばそれこそキリがないだろうが、わざわざ傷口を広げるような(往年の名指揮者を貶めるような)真似をして何になろう。なので止めにする。
 5番については70分そこそこの快速演奏も80分強の堂々演奏もアリだと私は考えている。(弛緩しない限りという条件付きだが、8番は遅い方が私にとって好ましい。)その場合、テンポに見合った響き・音色を備えていなければならないが。ここで2005年11月以降わが国で偽装が大問題となった分野に喩えてみると、軽快テンポの演奏は近代建築(高層ビル)、80分以上だと横幅もある巨大建造物(修道院)のような感じだろうか? しかし、当盤くらいになると、もはや遺跡ではないかと言いたくもなる(以下脱線)。私は2004年3月に数日間ながらベルリンに滞在した。宿は旧東地区のアレクサンダー広場(←そういうタイトルの歌曲があり、ミルバがイタリア語で歌っているディスクを持っている)のすぐ近くに取った。ドイツで本格的に実用化されているバイオディーゼル燃料(BDF)に関する聞き取り調査のためでフリータイムは(既に別ページに書いたコンサートを聴くためフィルハーモニーを訪れた以外)ほとんどなく、旧西ベルリン市街まで足を伸ばすことはなかった。(業務出張なので不満は全くなかったことを一応ことわっておく。)さて、旧東側を歩いていて印象に残ったのが東西分裂時代には現役だったと思しき共産党関係の建物や集会場だった。もはや使われることなく朽ちるままに見捨てられていた。(東京だったら速やかに撤去されて新しいビルが建てられるだろう。)こんなことを書くのは気が引けるのだけれども、実は当盤を聴いている内にあの光景がふと浮かんでしまったのである。つまり、この演奏は先に述べた遺跡(過去形=もはや跡形もない)というよりは今まさに崩壊しつつある廃墟(現在進行形)に近いのかもしれない。修復(別テイクにより編集)なしにはとても近寄れないような危うさが感じられるから。
 などど好き放題書いてきたが、わざわざ廃墟を見物に訪れる人が少なくないのと同様、当盤にも聴かせ所は決して少なくない。後半2楽章はいずれも名演だが、白眉は終楽章17分17秒からの約1分間で、この壮絶さはチェリをはるかに凌駕している。(ただし、この部分の頭でティンパニ2発が鳴らず、代わりにコントラバスが弾いているのは何だろう?)音密度には決して不足していないから遅くともスカスカ感はない。ゆえにアンサンブルさえある程度キチッとしておれば無類のスケール感を堪能できる。巨体になりすぎたため滅んでしまった恐竜に思いを馳せて聴くのが良いだろう。それではあんまりなので、生息地を再び海へと求めた鯨の方が適切かもしれない。そういえば、この指揮者には「マッコウクジラ」という異名が奉られているのだし。(結局ちっとも褒めてないなあ。)

おまけ
 「クラシックB級グルメ読本」(洋泉社)に「巨匠と名匠」を寄稿した宮岡博英は、「名匠ホルスト・シュタインが今から十年の間に、巨匠と騒がれるようになることを予言したい」と書いていた。どうやら「取り止めのない曲を立派に聴かせてしまう強引さ」や「ベルリン・フィルに招かれても曲はレーガーとかをやる、という意固地なところ」がその根拠らしい。そして「近いうちに『最後の巨匠』として今までシュタインをバカにして聴きもしなかった連中が褒めだしたりする(ヴァントのときと全く同じ)と思いますね、オレは。どうです、いくら賭けますか?」と結んでいた。見事なまでに外してくれた訳であるが、この本の初版が出た後にシュタインは上記のように体調を崩して実質的に引退してしまったから、宮岡には逃げ道が用意されることになった。(まったく悪運の強い奴だ。)
 とはいえ、私も当盤収録の規格外演奏を聴いた後では「ひょっとしたら」と思わないでもなかった。繰り返すが、この録音は(詳細は知らないが)大病を患ったシュタインが手術を受けて指揮活動を(一時的ながら)再開していた頃に行われたという話であるから、私のような凡人には常軌を逸していると聞こえるほどのノロノロテンポにしても、死線をさまようほどの試練をくぐり抜け、高みの境地に到達した指揮者にとっては必然だったのかもしれない。(当然ながら先の宮岡による「強引さ」とか「意固地」とは全く無関係である。何にせよ、彼の文章は「名匠」をからかうために書かれたようなところが少なくないため、まともに相手しても仕方がない。)この芸風を維持することができたならば、あるいは他にも極大スケールの名演(ただしユルユルと紙一重)が生まれていた可能性が少なくないだけに、この時期にブルックナー録音が5番しか残されなかったのは実に惜しい。

5番のページ   シュタインのページ