交響曲第9番ニ短調
ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
85/10
LONDON F00L-23118

 宇野功芳は「クラシックの名曲・名盤」のブル8の項で、「ショルティのような無機的な指揮者は(フルトヴェングラーやカラヤン、ジュリーニよりも)なおだめだ」と書いていた。宇野に限らず、「有機的(なひびき)」という言葉の出てくる批評には、書き手がその意味を本当に理解しているのか首を傾げたくなるようなものが多い。(「有機的」を「善」、「無機的」を「悪」の同義語として、つまり単なる便利な符帳として使っているとしたらお笑い種である。それなら「有機的」=「好き」、「無機的」=「嫌い」と何ら変わりがないが、そう思わざるを得ないような駄評しか私は読んだことがない。どこらへんが「有機的」なのか納得させてくれるような批評に当たった試しがない。)私に言わせれば「無機的で悪いかぁ?」である。初期交響曲のページには、ロジェストヴェンスキーの0番を聴いて「荒涼たる砂漠のような音楽」と思ったと書いているが、それこそがブルックナーの交響曲なのである。なにせ宇宙を構成する物質の大部分は無機物なのだ。我々の住む地球こそ生物由来の有機化合物に満ちあふれてはいるが、それはあくまで例外中の例外であるし、その太陽系第三惑星にしたところで無機物の存在比は有機物のそれを圧倒的に上回っているのである。繰り返すが、宇宙そのものを音にしたブルックナーの音楽が無機的であって何が悪いのか? 「有機的なブルックナー」というのは、あるいは47番なら辛うじて許されるかもしれない。 私の好みではないが、8番についても人間のドラマのような演奏もアリだと思っている。が、他の曲はダメだ。特に9番だけは絶対にダメである。第2楽章や両端楽章の大イベント(「ビッグバン」など)を別にすれば、常に−270.4℃(2.75K)の超低温(宇宙の背景輻射の温度)を感じさせる音楽でなければならない。その点でショルティやカラヤンの演奏は理想的である。
 もう少し続けてみる。(ダメを押してみる。)宇野は「クラシックの名曲・名盤」の「四つの最後の歌」(R・シュトラウス)の項で、ヤノヴィッツ&カラヤン&BPOによる演奏を絶賛しているが、歌手について「とても人間の声とは思えない、という意味で≪非人間的≫であり、それがこの≪彼岸の音楽≫にはぴったりなのである」と書いている。それなら、同じ理屈で≪彼岸の音楽≫であるブル9を無機的あるいは≪非人間的≫に演奏して悪いはずがなかろう。むしろヘタに「有機的」な演奏をすると、「音楽を平凡でこざかしい人間世界のもの」「現実的な低いもの」にしてしまうのではないだろうか? さらに宇野は「名演奏のクラシック」のクナッパーツブッシュの項にて、クナの演奏では8番終楽章のラストで「アルプスの威容」「人間業を超えた大自然と神の偉大さ」が表現されるが、フルトヴェングラーがベートーヴェンを演奏する時と同じく、アッチェレランドをかけて「汗びっしょりになり、夢中になって突き進む」と、「音楽が軽くなり、ひびきがうすくなる」結果として、「神の御業のようなブルックナーが、極めて矮小で貧しい人間界のドラマになってしまう」と書いている。つまり、彼が同著のフルトヴェングラーの項にも書いているように、指揮者の人間性から生まれる「切れば血の出るような」温かい響きはベートーヴェンでは成功しても、ブルックナーではアカンということである。「ショルティのような無機的な指揮者はなおだめだ」ってバッカじゃねーか。
 6番目次ページに載せた「ブルックナー・ザ・ベスト」への投稿文では、ショルティの6番を挙げたついでに「クラシック名盤&裏名盤リスト」に阿佐田達造が書いた9番評にも触れている。彼の「究極の『と』盤」という評価に対し、私は「フツー」の演奏だと思ったのだが、他にもあの本での阿佐田のコメントには大袈裟なものが多く、「ハッタリ評論家」というレッテルを貼らせてもらった(「と」にこだわりすぎたのが敗因)。しかし、あの9番のページには注目すべきコメントが多い。「物語性の一切を拒絶して鳴らし続けられる反復パターンには、凄味さえ感じさせられるのだ。ここまで完璧にオケを磨き上げれば、決して騒音になったりはしないというお手本みたいな演奏だ」(「ここまで〜演奏」は太字)とあるが、同感である。ブルックナーの交響曲CDの短評(1枚1行)を100種類以上載せていたあるサイトを見たことがあるが(ブックマークを付けておかなかったし、検索しても見つからないので今もあるか不明)、確か当盤について「こんなCDを買ったのが間違いでした」とコメントされていたと記憶している。サイト管理者はこの曲に何を求めているのだろうか? 私は当盤に欠けているところなど全く感じない。テンポ揺さぶりをしていないし、1楽章終わりの「ダダーン」も非常にクリアーである。どういう訳か、他の曲のように特定パートの突出に「アレッ」と思わされることがない。「この曲にそのようなケレンは不要」ということをちゃんと解っているのである。ということでトップクラスの演奏であるが、両端楽章のバランスがちょっと悪い(終楽章の方が3分以上長い)分だけ点を引かせてもらった。

おまけ
 このページ執筆中に「宇宙」で思い出したので、「クラシック名盤&裏名盤リスト」の「惑星」のページを開いてみた。執筆者の許光俊は、各楽章の「こうあるべき演奏」について述べた後で、「≪惑星≫はまるでマーラーみたいな心理構造で作られていることがわかる」と書いていたが、「あくまで暴力的に、すべてを滅ぼしてしまうがごとくに暗黒の死を感じさせる、モノスゴイ戦慄的演奏」(木星)、「滅びるものへの哀惜を込めたオマージュ」(木星)、「万物が闇の中に消えていく広大無辺の悟りの音楽」(海王星)はブルックナーの9番にも当てはまる、特に終楽章にはピッタリではないかと思った。もしかして「惑星」が得意な指揮者はブル9もいい演奏をする、という法則はないだろうか?

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