交響曲第6番イ長調
ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
79/01〜06
LONDON F35L-20088

 谷川浩司といえば、弱冠21歳にしてプロ将棋界の頂点である名人位に登り詰めた天才棋士であるが、彼は第23期十段リーグ(86年)の福崎文吾戦に敗れた後、こう語った。(実際には自戦記のタイトルに以下の一文を使用した。)

「感覚を破壊された。」

彼にそう言わしめた局面を後に将棋雑誌で見て私も唸った。後手谷川の玉(王将)は2二におり、3二銀と4一金が守っている。(いわゆる「片美濃」の構えである。)そこで手番の福崎は何といきなり3四の飛車を切ってしまった(飛車で3二の銀を食う、が当然金か玉で取り替えされて駒損になる)のである。いくら自玉が穴熊(隅に入れて金銀で蓋をする)の堅陣にあるとはいえ、これは実に思いきった手である。即詰(王手王手の詰み)がある場合はもちろんだが、必至(受けなし)に追い込めるという確信がない限り、このような大駒(飛や角)捨てはしないと普通は決まったものだ。私なら1秒も読まない。自戦記に「こういう手をどうして思いつくのだろう」と書いているように、谷川も全く読んでいなかった。彼だけでなく、ほとんどのプロ棋士にとっても奇想天外の一手だったのだ。(初心者なら指すかもしれないような手ではある。)ところが、3二同金と取った後に3三歩と叩かれてみると、これはもう寄ってしまっている(受けが利かない形になっている)のだ。谷川はいくばくもなく投了に追い込まれる。福崎のこのような独特の感覚は「妖刀流」と恐れられた。彼も谷川同様に関西所属で早くからその才能が注目され(一時は「谷川以上」という声もあったという)、将来を嘱望されていた棋士であるが、その後は勝ち星やタイトル獲得数などで大きく水を空けられてしまった感がある。しかし、2勝2敗のフルセットにもつれ込んだ第39期王座戦(91年)の最終局では、谷川自身も周囲も谷川勝ちでタイトル防衛と思っていた終盤に、桂タダ捨ての奇手(鬼手)を放って逆転し、見事王座位を獲得している。
 などど、ブルックナーとは全く関係のない話から始めたが、ショルティのこの演奏については、6番目次や他の6番ディスク評ページで既にいろいろ書いてしまっているので、何を書いたらいいのか思い付かなかったためである。ここで言いたいのは、私も谷川同様に感官を破壊されたために当盤以外の6番演奏には満足できない体質にされてしまったということである(ショルティ目次ページに書いたチャイコのPC1番も同じ)。声楽家の岡村喬生がかなり前に「ロックミュージックは脳を破壊する」という文章を書いてあちこちで顰蹙を買ったらしい。私はそれは読んでいないが、論理が幼稚で結局は「私はロックミュージックが嫌いだ」と言ったに過ぎないという批判はたしか当時のCDジャーナルの編集後記で目にした。(追記:NHK-FM「日曜喫茶室」に出演した際に岡村が語ったところによると、オペラ「蝶々夫人」中には日本の地名、人名、風景、文化etc. に関して数え切れぬほどの誤りが存在するとのことである。それらを一つ一つ正すべく尽力していると彼が語っていたのを聞いて少し見直した。)要は「ショルティの音楽は脳を破壊する」が言いたかっただけである。第1楽章第1主題提示部のティンパニの「ダンダダダダ、ダンダダダダ・・・・」が他の演奏とはまるで違う。インバル4番ページに書いた初稿終楽章とは少し違うが、あまりの騒がしさのため「ダンダカダンダンダンダン、ダンダカダンダンダンダン・・・・」のように音符が異常に多いと錯覚してしまう。再現部はさらに凄い。ティンパニの大向こうには拍手を送りたくなってしまった。音がより大きく、クリアーになっただけでなく「ダンッダダダダ、ダンッダダダダ・・・」と(上手く表記できてないが、)1拍目の「ダン」と2拍目の「ダ」の間が少し離れている。要は(ここでもウィンナ・ワルツとは少し違うが)リズム崩しをやっているのだが、その効果は抜群である。他の楽器も同調してノリノリ、全員が完全な躁状態ではないかと思わせる。軍隊行進による共振で吊り橋が落っこちるビデオを観たことがあるが、それを思い出した。ホールの床が抜けたり天井が落ちてきたりはしなかったのだろうか? (2005年6月追記:宇野功芳企画・編集「フルトヴェングラー 没後50周年記念」(Gakken Mook)にて渡辺政徳という聞き慣れぬ名前のライターによる「ヴィルヘルムに捧ぐ 親愛と畏敬を込めた考察」を読んだ。ショルティ&シカゴ響によるショスタコーヴィチの第8番を東京文化会館で聴いた筆者によると、実演体験中そのコンサートは最も大音響と言えるものであり、轟音、もしくは爆音の羅列という趣があったそうである。実にうらやましい。私も聴いてみたかった。とはいえ、大音響ならば同じショスタコでも11番(特に第2楽章後半)、あるいはニールセンの5番(特に第1楽章終わり)あたりで体験してみたかったところだが。ただし、渡辺の最初に浮かんだ考えは会場からの逃避だったということで、ショルティについては明らかに否定的なニュアンスで書いている。ところが彼は、宇野&サクラ管による「運命」のあまりの凄演にステージ功芳、いや後方のパイプオルガンが倒れるのでは、と思わず身を仰け反らせたという体験を紹介し、実演体験者から「天井が落ちるかと思った」という言葉が発せられたほど想像を絶するフルトヴェングラーの演奏も、もしかするとこれと同じような状況だったのではあるまいか、などと記していた。要はコーホー先生をフルヴェンと同格に扱うようなニュアンスであり、それを読んだ私が「なんじゃコイツ?」と胡散臭く思ったのも当然であるが、執筆者略歴を見て「なーんだ」と納得してしまった。それにしても呆れるのは、渡辺が「突出」あるいは「首座」という言葉を用いつつ挙げているベートーヴェン1248番およびブラームス1〜4番がことごとく宇野の推薦盤であること。さらにクナの「グレート」終楽章での「悪戯」に対して「真摯な遊び」という形容を用いるなど、私には彼が自分の考えというものをまるで持っていない人間であるとしか思えない。さすがに同一人物ということはないだろうが、許光俊に仕える鈴木淳史をはるかに上回る忠犬ぶりであることは確かだ。)こんな強烈な演奏を繰り返し聴いていたら脳細胞が破壊されない方がおかしい。6番目次に書いたチェリのMPO盤は、この閉塞的状況を打開するには力不足だった。もしかしてシノーポリならと思ったが(彼のエルガー2番2楽章の超スローテンポからは、この曲でもショルティ以上にノロノロでやってくれるのではと期待を抱かせたが)、6番の録音を残さぬまま逝ってしまったのが惜しまれる。一時期、某掲示板で使われていたが 、まさに「鬱だシノーポリ」である。(これが流行りだした頃に不幸な出来事が起こってしまった。)最近入手した3番のライヴCD-Rの快速爆演に感動したテンシュテットも、やはり残念ながら録音は残っていないようである。却ってこのような新快速スタイルならひょっとして、と思ったのであるが・・・・・
 6番目次ページにある「ブルックナー・ザ・ベスト」への投稿文に関して、以後も脈絡のない話を続ける。 あの時は「オーケストラというよりはシンフォニック・ジャズ・バンドという感じ」と書いたが、今なら「ジョージ・ショルティ・グランド・オーケストラ」、あるいは「ジョージ・ショルティと愉快な野郎達」である。ここで「ゲオルク」ではなく「ジョージ」を使ったが、その方が相応しいと思ったからである。以前出ていたショルティのディスクのジャケット写真で、彼は何かの帽子(キャップ)を被っていた。いい加減な記憶ではあるが、たしか米合衆国(註)の国歌とシカゴ・ベアーズ(NFL)の応援歌がボーナストラックとして加えられていたため、帽子の方はベアーズ関係のものだったと思われる。何にせよ、その扮装は三代続いているチャキチャキのヤンキー(私はラテンアメリカ人の「ジャンキー」という発音が好き)と言っていいくらいによく似合っていた。これとは直接関係がないが、私はクラシックを聴き始めた当初、ショルティの音楽を聴いて彼が生まれも育ちもUSAだと思い込んでいた。それくらい彼の国に馴染んでいるゆえの「ジョージ」呼ばわりである。むしろ「ゲオルク」はセルの方が似合っているように思う。(語呂は悪いが。)ちなみにBBCワールドサービス(英語放送)のクラシック番組では「ジョージ・ショルティ」だった。VOAは知らない。何にせよ、使用言語が違う欧米人がお互いを呼ぶ場合にどうやっているのかちょっと気になる。(言語体系が全く違う場合は却って問題は起きにくい。)例えば英語圏では、ショルティもセルもティントナーもプレートルもボレットもヤマモトも全て「ジョージ」にしてしまうのだろうか?(他に「フアン」「ジョアン」「ジョン」「ヨハン」「ジョヴァンニ」「イヴァン」、「カルロ」「カルロス」「カール」「シャルル」「チャールズ」、「ペドロ」「ペーター」「ピエール」「ピーター」「ピョートル」など、いくらでもあるが、呼び名問題は以前から気になっている。)

註:私は西語をスペイン国籍のバスク人から習ったが、他のクラスにいた人間からこんな話を聞かされた。他国に言いがかりを付けて戦争を仕掛けるような「暴君」が大統領の座についてしまうような(ついでに書いておくと地球温暖化対策として打ち出された二酸化炭素排出削減計画からも自分勝手な都合で離脱してしまうような)「ならず者国家」のことを日本人が「アメリカ」と呼ぶことに対して、コロンビア人の講師がいたく憤慨しているというのである。もっともである。確かに「アメリカ」とはアラスカからホーン岬までの一続きの大陸のことで、一国の呼び名としては全く相応しくない。以後私は「アメリカ」の使用を止め、「米合衆国」あるいは「USA」を使うことにした。(百歩譲って「米国」である。「合衆国」はメキシコもそうだからダメである。)脱線ついでに書いておくと、中南米の先住民に対して「インディオ」という呼称を使っている人間は、それだけで人格を疑う。読者でそれを使っている人がいたら今日を限りに絶対に止めていただきたい。「インディオ」は言うまでもなくクリストバル・コロンの錯覚である。それを今まで引きずっている方がどうかしている。(北米の先住民もそうだが、)「インディオ」は誤用であるばかりか、現地では混血や白人が生粋の先住民に対して時に用いる侮蔑語である。(後から来たクセしやがって!)ネイティブでない私に正確なことは判らないが、どうやら「最上級のバカ」に相当するらしい。ちゃんとした「先住の」という意味の「インディヘナ」があるのだから、当然それを使わなければならない。この際だから暴走を続けるが、2002年のサッカーワールドカップ南米予選のパラグアイ対ブラジル戦で、ゴールキーパー&キャプテンのホセ・ルイス・チラベルト(ただし綴りは "Chilaverto" ではなく "Chilavert" であり、仏語のように末尾のtを発音しないので「チラベル」の方が正確)が試合後にロベルト・カルロスに唾を吐き、3試合の出場停止処分を受けた。(後に2試合に短縮されたが、そのため本大会のグループリーグ初戦に出られなかった。)その発端になったのがロベカルのチラに対する「インディオ」発言である。私に言わせれば、糞ロベカルこそ10試合ぐらい出場停止を喰らってもおかしくない。(とはいえ、チラの方も「混血の自分は先住民より上」という潜在意識があったからこそ、そのような行為に及んだ訳であるから、決して誉められたものではない。)今ではあのにやけた顔を見ているだけで気分が悪くなる。あれだけ品のない笑い方というのは、古今東西見渡してみても他に宇野功芳ぐらいしか見当たらない。また、札束攻勢で有力選手を次々とかき集めている奴の所属チームも(最近までろくでもないオーナーが君臨していた国内の某野球チームと並んで)私は大嫌いである。( "real" が実際には「王の」という意味で使われているのは知っているけれども、)非現実的な金額を湯水のように使って作られたあの蹴球団のことを、私は一人で勝手に「イレアル・マドリード」と呼んでいる。なにが「銀河系軍団」じゃボケ!(以上で脱線&暴走終わり。→2006年7月追記:今年のワールドカップドイツ大会決勝でも嘆かわしい事件が起こってしまった。まさに地団駄を踏まずにはいられないような。)

 次は「同じイ長調ということもありますが、この曲もベト7とともに『舞踏の神化』と呼ぶべきだ」について。既に誰かが書いているかもしれないが、ブルックナーは3番以降の交響曲を作るに際し、ベートーヴェンが交響曲に用いた調を強く意識していたように思われる。(ベートーヴェンの12番のような明るくて軽快な曲はブルックナーにはない。)一覧表にするとこうである。(少々ずれているかもしれないが許せ。)

        ベト    ブル
 第3番   変ホ長調  ニ短調
 第4番   変ロ長調  変ホ長調
 第5番   ハ短調   変ロ長調
 第6番   ヘ長調   イ長調
 第7番   イ長調   ホ長調
 第8番   ヘ長調   ハ短調
 第9番   ニ短調   ニ短調

ハ短調(ベト5とブル8)とニ短調(ベト9とブル39)の類似性についてはあちこちで触れられているが、変ホ長調(ベト3とブル4)、変ロ長調(ベト4とブル5)、イ長調(ベト7とブル6)も共通している。ただし変ロ長調は曲の規模や性格がかなり違う。逆にイ長調の2曲は、既に書いたようにリズムが強烈であることや、楽章の配置(2楽章のみ暗めの遅い楽章で他は明るくて速い)などクリソツである。そこまでではないけれども、変ホの2曲もやはり性格は似ていると思う。ここで判らないのが重なっていない部分、つまりヘ長調(ベト68)とホ長調(ブル7)である。交響曲でホ長調が使われるのはチャイ5やラフ2の終楽章のように他に例がない訳でもないし、捜せば他にも出てくるだろうが、「第○番ホ長調」というのは私は他に知らない。少なくとも一般的ではない。
 ブル7は時に「ブルックナーの『英雄』」と呼ばれることもある。確かに2楽章に葬送行進曲が使われている点や4つの楽章の緩急の配置は共通している。が、私はそうは思わない。この曲は「エロイカ」のように特定の人間の勇ましさを描いたものではないからだ。アダージョこそワーグナーの追悼のために作曲されたが、他の楽章のどこにもワーグナーはおろか人間は登場しない。性格としては自然を描写したベートーヴェンの6番に明らかに近い。にもかかわらず、ヘ長調にしなかったのは何故なのだろう? 他がきれいに重なっているだけに、ここがヤケに気になるのである。で、いろいろ考えた挙げ句、私は敢えて避けたのだという結論に達した。ただし、避けたのはベートーヴェンではない。調の性格についてはそのうちどこかに書くかもしれないが、ヘ長調から半音下がっただけでも印象はかなり違う。ホ長調では「ウキウキした感じ」にはならないのである。神は信じていても、心底から自然を、そしてそれを創造した神を諸手を挙げては賛美する気にはなれなかった作曲者の心境が調の決定に反映したのではないか、と私は想像しているのだが・・・・・やっぱ考え過ぎかな?
 この点に限らず、何か思い付いたことがあれば下に書き足すかもしれない。(何だか掃き溜めのようなページになってしまったが、こういうのが1つや2つぐらいあっても別にいいだろう。)

2005年11月19日追記
 上の「交響曲第○番ホ長調」問題であるが、シューベルトにはかつて(旧全集では)「第7番」とされていた未完の交響曲があることを後に思い出した。超有名な「未完成」ロ短調の1年前(作曲家24歳時)に着手されたものの中断され、結局そのままになってしまったのである。(たしか補筆完成版のCDが出ていたような。)やはりこの調を使って仕上げるのは難しいのだろうか? などと思っていたのであるが、最近になって別の作曲家がちゃんと完成に漕ぎ着けた交響曲のディスクを買った。ハンス・ロットの第1番である。(作曲者自身が大部分破棄したという第2番のスケッチが残っているため「第1番」とされているが、完成品としては唯一無二の交響曲である。)
 某クラシック専門掲示板サイトで話題になっていたため私も少しは気になっていたのだが、通販サイトで試聴したところ第1楽章冒頭がどことなくブル7っぽく感じられたので全曲を聴いてみたくなった。そこでヴァイグレ指揮ミュンヘン放送響盤(ARTE NOVA)、それも解説書が内容豊富らしいのでアルテ・ノヴァの国内盤を生協に注文し入手した(850円也)。ケース裏を見てやはりブル7と同じ調であることが(まったく暢気なものだがその時ようやく)判明した。(後で気が付いたが、両曲には第1楽章第1主題がやたらと長いという共通点もある。似ていると聞こえても不思議ではない。)この精神を病んだ挙げ句に短い生涯(26年未満)を閉じた作曲家は、よほどホ長調を好んでいたのか、最初のオーケストラ作品と考えられている「管弦楽のための前奏曲」(このCDに併録)の他、「管弦楽のための組曲」でも用いている。が、ジックリ聴いてみるとやっぱり調のせいかパッとしない。(ものすごく繊細で美しい曲だが。)ドホナーニの目次ページにも書いたが、ホ長調は隣接する変ホ長調やヘ長調ほど個性が明確ではなく、どうにも中途半端というか優柔不断という印象が拭えない。それどころか、聴いている内に不安定さ、はかなさといったものを感じてしまった。そのような調を使うこと自体、ロットの悲惨な末路を暗示しているかのようである。(私が既にそれを知っているせいでもあるし、ショパンの練習曲集作品10の第3番に多分に影響されていることも否めないが・・・・)
 ところで、解説によると全4楽章が完成されたのは1880年であり、この時点で師のブルックナーは第6番を作曲中だったとある。これは私にとって全く想定外のことであった。ブル7の方が後だったとは! そちらの作曲は1881〜83年にかけてのこと、既にロットは精神病院に入っていた。(数回に及ぶ自殺未遂の後、結核のため84年6月25日に世を去った。)となれば、ブルックナーが調を選択する際に自分のお気に入りだった生徒に対する憐憫の情が暗い影を落としたとは考えられないだろうか? いや、そうではない。既に「交響曲第7番ヘ長調」として出来上がっていたにもかかわらず初演(ロットが没してから半年と5日後)を前に半音下げて書き直したのではあるまいか? ロットの追悼のため、彼の最初で最後となってしまった交響曲と調を同じにすることによって。(←またまた根も葉も全くない珍説を唱えよってからに。一方、マーラーが友人の追憶のため自分の第1〜5番までの交響曲にロットの楽想を散りばめたことは私も疑えないと思う。なお、解説で指摘されていたワーグナー、ブルックナー、ブラームス、そしてマーラーに加え、第2楽章はどことなくラフマニノフとも似ているような気がする。)
 それにしてもロットに対するブラームスの非道い仕打ちは許せんなあ! ちょっぴり嫌いになった。(ちなみに、この交響曲についてブラームスは「この作品には美しい部分が数多くあるが、それと同じくらいナンセンスな部分も含まれている。だから美しい部分は君自身が作曲したんじゃないんだろう。」などとロットに言ったらしい。私は最初それを文字通りに解釈していたのだが、後に「美しい部分」はブラームスの音楽、「ナンセンスな部分」は彼が嫌っていたワーグナーやブルックナー風の音楽を指しているのではないかという気がしてきた。つまり、ブラームスはロット作品の第4楽章主部に出てくる行進曲風主題を自身の第1交響曲終楽章のパクリに他ならないとして気分を害し、「音楽的窃盗だぞ!」と遠回しに非難したとは考えられないだろうか?)ハンスリックにしたって自分と何となく名前が似てる若者なんだから、もっと厚遇してやっても良さそうなものなのに・・・・全く冷たい奴っちゃ。(←無茶言うなよ。)

2006年3月11日追記
 昨日帰宅後に予約録画しておいたNHK-BS2「クラシック倶楽部 ─ 第1562回N響定期演奏会 ─」を観て、スクリャービンの交響曲第1番作品26もホ長調であることを知った。まったく不明を恥じる他ない。

2006年10月12日追記
 某掲示板のブル9スレにて先週こんな投稿を見た。

 ヴァントはインタビューで
 「ブル9とシューベルトの未完成どちらもホ長調(だっけ?)で終わっている。
  この意味はわかる人にはわかる。わからない人にはいくら説明してもわからない。」
 みたいなこと言ってた希ガス。

はたして私は「わかる人」なんだろうか? それとも・・・・(ただ何となくわかるような希ガス。自分もそれらしい説明ならいくらでもできるしね。)

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