交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
81/01/27
LONDON POCL-2936

 第1楽章の冒頭はまっとうに聞こえるが、1分40秒でその印象が打ち砕かれる。「ドーソーファミレド」を受けた「ドミーソーラシド」のトランペットがやたら耳につくのである(1分44秒〜も同様)。こんな風に鳴っているのは当盤以外に思い付かない。1楽章の8分少し前から激しくなる部分でも、金管によるブルックナーリズムがかなりハッキリ聞こえる。このように他盤では意識しなかった部分に思わずハッとさせられることが少なくない。
 許光俊は「生きていくためのクラシック」のショルティの項で、「鋭角的な動きで、肘がやたらと目立つ」彼独特の指揮ぶりに抵抗感を覚えたと書いている。(「こんな名盤は、いらない」にも「目をギラつかせての鋭角的な指揮ぶりが猟奇的」とあった。そういえば、「猟奇的」という言葉をクラシック批評に持ち込んだのは許や彼の仲間達ではなかったかしら?)私はクラシックを聴くようになってから、欧米のオーケストラの来日公演のテレビ放映はなるべく観るようにしていたのだが、どういう訳かショルティの演奏会は観る機会がなかった。彼の指揮を初めて観たのは「20世紀の名演奏」のテレビ版で、ブラームスのハンガリー舞曲第5番を演奏している随分昔の白黒映像だった。ゼンマイ仕掛けの人形のようなギクシャクした動きに思わず笑ってしまったけれども、その内にだんだんと気味が悪くなった。(許が「生きていくためのクラシック」で紹介している「指揮棒を誤って自分の顔に突き刺してしまった」というエピソードも「さもありなん」と思わせる。余談だが、「20世紀の名演奏」で放映された演奏では「ダフニスとクロエ」を振るミュンシュの姿も時代劇の立ち回りのようで凄かった。奏者が誤って指揮棒で切り裂かれたりはしなかったのだろうか?)また、ショルティが笑いながら指揮する何かの名曲集のCDジャケットの写真もネット上のどこかで見たことがあるが、あの笑顔もちょっと異様であった。世の中には笑いながら人あるいは動物を傷つけ、あるいは命を奪ったりできるような人間がいるらしいが、私が想像したのは故人には失礼だけれどもそういう変質者である。何れにせよ、ある程度異常感覚の持ち主でなければこのような音楽は絶対にできないと私は思っている。
 7番ページでは許によるショルティ評を取り上げているが、彼が「こんな名盤は、いらない」に書いた「音楽から、あらゆる意味を取り去ってしまいたかったのだ」はやはり疑問に思う。それが何なのかは私にもよく解らないが、指揮者が何らかの意味を付与しようとしたのは確かだと思う。(許の批評が本当に当てはまるのは、同じオーケストラを振ったバレンボイムの演奏だと思う。一本調子でただただ騒がしいだけの音楽である。さらに許は「生きていくためのクラシック」では、特定パートの強調が録音によるものだと述べているが、果たしてどうだろうか? ならば、いつも決まった楽器が大きく聞こえるはずだと思うのだが・・・・実際にベームやメータとVPOの録音ではそうなっている。ショルティの8番VPO盤も同様で、CSOとの演奏とはかなり印象が違う。)
 などど奇妙なことばかり書いてきたが、演奏自体は一部を除いてごくフツーである。「普通」というより「健康的」の方がいいかもしれない。大部分の人間が(身体あるいは心の)どこかに病気を抱えた現代では、あまりに健康的すぎる人間は周りからヘンに思われたりする。「虫歯が一本もない子供」「生活習慣病を全く患っていない老人」のような演奏とでも喩えられようか? 病んでいるのは私の方で、それゆえに所々がヘンに聞こえるのかもしれない。

追記
 目次ページ執筆の際に書棚から吉田秀和の「世界の指揮者」を取り出したついでに、ショルティの項を再読した。吉田は「英雄」(旧盤)の第1楽章について「真向微塵とひた押しに押しまくる勢い以外の何ものでもない」と否定的である。早い話、「一本調子」「イケイケ」ということである。しかし、第2楽章を聴いて「ショルティには劇場的なものに対する直観的で本能的な強い共感性が働いている」と書いている。ということは、本文中の許の、および上の吉田の言葉を借りれば、ショルティは音楽からいったん意味を取り去った上で(本能的に)劇場的効果を付与していうことになるのだろうか?

4番のページ   ショルティのページ