交響曲第6番イ長調
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン放送交響楽団
97/03/03〜04
BMG (Arte Nova) BVCY-38033〜44 (全集)

 スクロヴァチェフスキのディスク評ではこればっかしだが、当盤では第1楽章の第1主題がフォルティッシモで演奏されるところで驚かされる。何しろ金管による対旋律が異常なほどハッキリ聞こえるのだから。(ここが明瞭に聴き取れる演奏はさほど多くなく、逆にほとんど聞こえないことも決して稀ではない。)どうもこの指揮者は意図的に対旋律を浮かび上がらせるという手法を好んで使っているようだが、それは果たして正しいことだろうか? これを演劇や人形劇に喩えれば、役者や人形よりも黒子や人形使いの方が目立っているようなものだ。その道のプロならば、それらの動きを楽しんだり自分の仕事の参考にすることもできるだろうが、一般の観客にとっては目障りなだけではないだろうか? 戻って、スクロヴァチェフスキの対旋律強調は、その対旋律が恐るべきほどの正確さで弾かれるために余計耳障りなのである(特に弦が担当する場合)。「あー鬱陶しい!」と何度思ったことか。とはいえ、彼がそのような解釈を楽譜から読みとったのは間違いあるまい。あるいは作曲も行う指揮者ゆえの「深読み」なのかもしれない。ということで、シノーポリを思い出した。
 私がクラシックを聴き始めた頃のシノーポリといえば、リリースするディスクはことごとく絶賛され、まさに飛ぶ鳥を落とすような勢いであった。中でも全集録音が進められていたマーラーはまさに「特薦大盤振る舞い」状態であり、やや先行していたインバルの全集よりはるかに高く評価されていた。しかしながら、私は何曲かをNHK-FMや来日公演のテレビ放送で視聴し、2番はディスクを買ったものの、いずれも「ハァ?」であった。当時私はバーンスタイン&NYPによるマーラーのディスク(CBSの旧全集)を所有しており、結構気に入っていたのだが、シノーポリはバーンスタインが思い入れタップリに演奏している箇所はアッサリ流し、逆にどうでもいいんじゃないかと思うような所で突如テンポを落としたり急加速したりする。あたかも意図して聴き手に感動させないよう意地悪をしているようなテンポ設定なのであった。大枚(2枚組定価6600円)はたいて買った「復活」(←カップリングの歌曲はまずまずだったけれども)が即刻中古屋行きになったのは言うまでもなく、「ダメ指揮者」の烙印を押すことにも躊躇はなかった。彼の場合は「深読み」に加えて、お得意の精神医学に基づいた解釈が加わっていたのかもしれないが・・・・宇野功芳の「名演奏のクラシック」によるとベルリン・フィルに客演した際(曲目はシューマンの2番)、リハーサルで作曲者の精神状態に関する演説をして団員から拒否されたらしいが当然であろう。(その頃から彼の実力にクエスチョンを付けていたのは、宇野以外では渡辺和彦ぐらいではなかったかしら? ちなみに、これは大いに意外であったが、シノーポリのブルックナーは悪くない。やはり作曲もする指揮者であるマゼールにしても、マーラーではつまらない演奏が少なくなかったが、ブルックナーは名盤揃いであると私は思っている。それらについては彼らのディスク評で述べる。)
 脱線はこれくらいにするが、要は感動につながらないような「深読み」ならサッサと止めてしまえ、と言いたかったのである。もしかすると、渡辺の「ヘタなオーマンディ」発言も、指揮者のこういうところを指してのものではないかという気がする。繰り返しになるが、対旋律はあくまで主旋律をサポートする、あるいは引き立てるためのものであって、それが主旋律よりも際立つというのはやはり本末転倒であると思う。ゆえに、「他の指揮者では聞こえない音が聞こえる」を無条件に褒め言葉として使っている評論家は「単純バカ」ではないかという気もしてきたのだが、それについてはどこかで書くかもしれない。「対位法もろくに知らないド素人は黙っとれ!」という声が聞こえてきそうだが、それは「設計のことは専門家である自分に任せておけ」と客にうそぶく建築家(9番ページ参照)と同じではないだろうか? このような虚仮威しに騙されてはいけない。依頼主が断固クレームを付けるべきであるのと同じく、私も気に食わない点にはさんざん悪態を吐かせてもらった。
 ただし、当盤はそれ以外は決して悪くない(例えば両端楽章のエンディングを勢いで押し切ってしまおうとしないところなど)。が、件の処理があまりにも神経に障るのでここまで書かずにはいられなかったのだ。

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