交響曲第9番ニ短調
ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
97/09/03
Deutsche Grammophon POCG-10169

 ハイティンクのページ作成でいろいろ参考にさせて頂いたI氏のサイトには、「コンセルトヘボウ管弦楽団のページ」とともに「シュターツカペレ・ドレスデンのページ」があり、氏の同オケに対する思い入れの深さが窺える。しかしながら、1992年からシェフの座に就いたシノーポリについては辛口のコメントが目立ち、当盤に対しても最悪に近い評価が下されていた。(ちなみに、同じ9番でもベトの方は「非推薦盤の中でも最悪クラスの非推薦盤」とのことである。)その評がとても興味深かったので少し紹介させていただく。
 氏によると、シノーポリは「極端に言えば頭を使わないで演奏できるような熱血音楽」に向いているが、ブルックナーのように抽象的な音楽はダメで、最も抽象性が高い第9番は全く向いていないとのことである。録音に対する不満がひとしきり述べられた後、演奏内容に対するコメントが来る。氏によれば9番は「天才の筆が冴え渡った傑作中の傑作」で、「『神との対話』を表現していると思われるほど高い世界なのである」とある。(拙サイトの9番目次ページに記したように、私は9番の冒頭を「神と何者かの対話」と感じた。ゆえに「作曲者と神との対話」とする氏の考えとは少し違うけれども、「神」と「対話」というキーワードが共通しているのが面白い。なお、氏は「大げさな表現」と謙遜されているが、決してそんなことはない。素晴らしい感性だと私は思う。)ところが、「シノーポリの演奏では、『神』は最後まで現れない」のだそうだ。既にこの評を読んでいた私は興味津々で当盤を聴いた。
 実はここでの私の評価は、氏と正反対といっていいほどに異なっている。(そもそも「ゆっくりとしたテンポをとって重厚なブルックナーを作り出そうとしている」が解らない。トータル約62分というのは私にとっては標準的な演奏時間である。もしかして氏と私の間には、最初に聴いたディスクによって染みついた基本テンポに大きな違いが存在するのだろうか?)4Dシステムによる録音についても、この曲では「散漫」というよりは「宇宙的拡がり」を感じさせてくれるのでプラスに受け取れる。次に「『神』は最後まで現れない」については確かにその通りだろうと思う。医学博士号を持つシノーポリは無神論者 and/or 唯物論者ではなかったかと私は何となく考えている。彼はマーラーと同じく、精神分析によって作曲家(もちろん人間)の深層心理に手を突っ込んで解釈の足がかりを得ようとしたのだ。スタイルは全く異なるけれども、ブルックナー演奏の伝統にとらわれないという点ではバーンスタインと共通しているようにも思う。だから、こういうディスクは純粋に音楽として鑑賞し評価すべきではないだろうか。
 そう割り切って聴けば、これは非常に優れた演奏なのである。ビッグバンの直前にほんの少しだが間が空きそうになる。が、音楽は滞ることなく流れていく。ギリギリセーフ。この程度なら口頭注意、および胸ポケットに手を入れてカードを出す真似をするだけで済む。(ヨッフムは一発レッドだ。)例によって構造把握はしっかりしているから、アホなテンポいじりは全くといっていいほど聞かれない(後述の1箇所のみ)。一方、彼独特のパートバランス調整によって斬新な響きが聞かれるのも他曲同様だが、これが凄味を演出していることが少なくない。8番ページのように列挙するつもりはないが、1つだけ示すと第1楽章のコーダ。24分20秒過ぎから、ヴァイオリンと金管の掛け合いに混じって低弦の「ザンザンザン、ザンザンザン・・・・」という刻みが耳に飛び込んでくる。この迫力には思わず寒気がした(チェリの4番ラストに匹敵)。これも4Dの効果であろうか? 唯一惜しまれるのは、その直後なのだが25分05秒以降の尻軽テンポ。折角の名解釈もこれでは画竜点睛を欠く結果となってしまっている。ジュリーニの7番同様、スキーのジャンプ競技に喩えるならば、あそこまで酷くはないものの尻餅をついたような失態である。残念ながら飛型点を大きく引かないわけにはいかない。
 I氏もそこそこ評価していた第2楽章については私も特にコメントなし。最後にアダージョであるが、ここでも氏の耳は確かで「空虚なブルックナー」という評価は正しい。あとはそれをマイナスと捉えるかプラスと捉えるかという違いだけだろう。既に9番目次ページを読まれた方には、「全てが無に帰る音楽なのだから空虚であればあるほど良い」と私が考えているのもたぶん理解できよう。

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