交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
87/09
Deutsche Grammophon UCCG-9100

 スクロヴァチェフスキの6番ページで、宇野功芳の「名演奏のクラシック」に出ていたエピソードを紹介したが、あの本の中でシノーポリに関しては(彼にしては珍しく)正しいことを言っている。すなわち、「自分ではいろいろ考えているつもりかもしれないが、それが少しも音楽の魅力として伝わってこない」には完全に同意する。ただし、「僕は、シノーポリの演奏から、なにか特別な心理的深読みなど、一度も聴き取ったことがない」は私の考えるところと少し違う。シノーポリが深読みによって何か変わったことをしているのは解るのだが、それがことごとく裏目に出る。やればやるほど音楽は魅力を失ってしまう。私はそう思っている。将棋を指される方ならば、直観で最善手(終局後にそうだったと判明)が浮かんでいたにもかかわらず、あれこれ考えているうちに手が見えなくなってしまい、挙げ句の果てに疑問手や悪手を指してしまったという経験をきっとお持ちであろう。何となくそれと似ているような気がする。
 ところで、宇野が「魅力として伝わってこない」の「よい例」(悪しき例?)として挙げたのが何を隠そう当盤収録の演奏である。既に述べた通り、私もこの指揮者の実力はさほど評価していなかったのであるが、職場生協の2割引セール時に魔が差して廉価盤(1200円)を買ってしまった。ところが、改めてジックリ聴いてみたところ「そんなに悪くないんじゃないの」と思ったのである。最初の時は腹を立てすぎていた。(←秀和センセのパクリだが、目次ページで触れたFM聴取時には既に聴く前から悪い先入観を抱いてしまっていたに違いない。)あの「復活」のように「いらんこと」をしていないので、イライラさせられることもなく音楽に浸ることができた。第1楽章の3分20秒および24秒で耳慣れない木管の合いの手が入るなど、たぶんあちこちで小細工をやっているのだろうが、こちらの気に障るほど神経質な解釈は聞かれなかった。もっとも浅岡弘和によれば、第1楽章冒頭の処理(31小節あたりからアッチェレランドを掛け始め、43小節からは51小節のフォルティッシモに向かって突進)は「最悪」なのだそうだ。彼はさらに「あるいは彼の得意な楽曲分析の結果この51小節を真の第1主題提示と解釈したのかもしれない」と述べているが、何を隠そう、この私はまさにそのように勘違いしていたのである(ヴァントBPO盤参照)。そのせいか全く不自然には聞こえなかった。私の無知が幸運な結果を生んだといえるかもしれない。31小節以降のアッチェレランドも十分許容範囲である。(以後も曲想の変わり目で加速するが、節度があるため「ちょっと前のめりかな」で済んでいる。)浅岡はシノーポリの解釈を「悪い意味でのフルトヴェングラーの現代版」と貶し、逆にフルトヴェングラーはテンポを落とす指示のある改訂版使用のため救われていると書いていたが、私はここでテンポを落としすぎる演奏は興醒めしてしまう。彼は何を根拠にして「作曲者自身の指定よりも却って曲想を生かしている」とまで言い切ったのか、それが私には興味深い。
 それはともかく、当盤の演奏は決して悪くないけれども、ケバケバしい音色がちょっと残念である。この4番が全集録音第1弾だったから前任者の影響がまだ残っていたのであろう。基本的には明るく開放的な曲の性格と合っているのが救いだが、フォルティシモになると途端にうるさく感じられてしまう。終始イケイケのヨッフムならそれも長所として作用したのだが、沈着冷静スタイルのシノーポリだと互いの持ち味を殺し合う結果になってしまうということかもしれない。

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