交響曲第8番ハ短調
マルティン・ジークハルト指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団
00/02/21〜23
DENON COCQ-83426

「大丈夫か平野昭?」

当盤ブックレットを一読して思わずそう呟いてしまった。何せこのように書かれていたのだから。

  ジークハルトのブルックナー初録音が、最も難しいといって過言では
 ない第8番で始められたことは絶対的な自信があってのことだっただろ
 うが、正直なところこれほど傑出した解釈を聴かせてくれるとは想像し
 ていなかった。

絶句である。1994年6月に世を去ったアイヒホルンの後を受けて、ジークハルトはリンツ・ブルックナー管と同年10月に4番を、そして翌95年の2月と4月にそれぞれ3番と1番を録音している。(ちなみに95年10月に同オケと演奏された5番も自主製作盤としてリリースされているらしい。)さらに、ちょっと古い(81年7月録音)がグシュルバウアーによる第0番を加えることで、カメラータ・トウキョウが企画しながらもアイヒホルンの死去により頓挫しかけたブルックナー全集が何とかかんとか(変則的ながら)完結するに至ったのである(CMSE 431/442)。こんなことはブルックナーを愛する者にとって常識の範囲内だろうし、いやしくもクラシックを生業とする人間であれば、そのくらいは知らなくてはだめだ。まして平野はアイヒホルンによる全曲録音の取り組みには触れているのだから全く不可解である。その先を徹底的にスポイルするとは一体どういうつもりだろうか? 読点の打ち方など日本語はまあまともだから、8番インバル盤ページで推察(邪推)したようなアホ学生の仕業とまでは言わないが、「やっぱり質の悪い下請けに出していたんと違うか?」と疑われても仕方ないと思うし、その後にいくらおべんちゃらを並べ立てたところで虚しく響くだけである。ちなみに「ジークハルトの前任者クルト・アイヒホルン」という記述もあったが、実際にはアイヒホルンは89年にリンツ・ブルックナー管の名誉指揮者に任ぜられていたものの主席の座に就いていたことはない。要は事実関係の把握すらろくにできていなかったということである。また、ブックレット併録の指揮者&オケ紹介(訳文)によればジークハルトの主席着任は92年のことであるから、「アイヒホルン亡き後このオーケストラの行く末を心配したこともあったが」云々は的外れもいいところ。さらに、執筆時点(2000年6月)には同年夏の退任も決まっていたはずだから、指揮者およびオケの将来についての言及(妄想)にも呆れる以外ない。正直なところこれほどお粗末な解説を読ませてくれるとは想像していなかった。(ついでに糾弾しておくと、CDジャーナルのコメントも「ブルックナーの最高傑作第8番は、ジークハルトにとって初のレコーディング」と平野の大ボケを鵜呑みにしているのが何とも情けない。)
 さて、ジークハルトが当盤以前にもブルックナーを録音しているという情報は既に(浅岡弘和のサイト等から)得ていたし、カメラータの3番か4番あたりにも安ければ手を出してみようかと考えていた。ところが、ある日ヤフオクで見かけたのはDENONレーベルの8番。恥ずかしながらノーマーク、つまり存在自体を知らなかった。けれどもアイヒホルンが残した録音のうち8番のみ世評がイマイチという印象を抱いていたこともあり、その代替品としてコレクションに加えるのも悪くはないと思った。今や「犬」や「塔」では扱っていないから入手は容易ではないはずで、それなりに値上がりするのではないかと予想したが(にもかかわらず1円も上積みしなかったけれど)、結局スタート価格980円のままにめでたく終了時刻を迎えた。これで演奏が良ければ本当に「めでたしめでたし」となるが・・・・
 試聴に際しては「他曲であっても演奏経験を持っているなら」と不安は全くなかった。トータル76分台だから中庸テンポの演奏と考えて良いだろう。(ただし第2楽章のトラックタイムが14分を割っており、15分40秒を費やした前楽章の後では尻軽と聞こえてしまうのは惜しい。やはり両楽章のバランスは大事だ。)ところで、この「中庸テンポ」(私は75分前後を想定)だが実は結構クセモノである。それで8番の名演を成し遂げるのが実は最も困難なのではないか。最近私はそんな気がしなくもないのである。70分そこそこの快速テンポなら勝手に(テンポいじりの程度に関係なく)「爆演」に仕上がってしまう。後はそのような演奏を受け入れられるか入られないかという問題を聴き手に委ねてしまえばよい。少なくとも「やりたい放題」の好きな人からは歓迎されるはずだ。一方、(2枚組になるのも厭わず)恰幅の良い「巨匠スタイル」を目指すのであれば、なるべくケレンを廃し(テンポの変更は必要最小限に留め)、しかもテンションを保ち続ける必要がある。これは決して容易ではないが、目指す方向は予め決まっており、最終的に「究極の演奏」という1点に収束するのではないかと思っている。ここから「中庸テンポ」について考えてみる。
 インテンポに終始していては「巨匠型」にどうしてもスケール感で劣るゆえ、「つまらない」「平板」との印象を与えるだけになってしまう。かといって「イケイケ」に走ってしまっても「爆演型」ほどのエネルギーは発散されないし、ヘタをすれば「あざとい」「下品」として非難を浴びる恐れがある。だから「中庸の美」を具現するためには多大なる工夫が要求される。もしかすると、その手段は無数に存在するのではないか。ならば指揮者の裁量に任される部分がかなり大きいと言い換えることもできるだろう。
 では当盤におけるジークハルトの匙加減はどうかということになるが、まずは合格点である。かなりダイナミックにテンポを動かしているものの品は損なわれていないし、時にティンパニが派手に立ち回っているのも程良いアクセントになっている。このようなスタイルではマタチッチ&N響盤2種やヨッフムの70年代までの録音数種が思い起こされるが、それらよりも断然出来は良い。ここで先に持ち出した浅岡による「自力型」「他力型」という分類を思い出した。もちろん「指揮者の裁量」というのは自力に属するものだろうが、当盤の演奏には決して不自然さを感じない。(アダージョやフィナーレ後半はスムーズに流れすぎて却って物足りなさを覚えてしまったが・・・・)入力は「自力」でも出力結果は「他力」という不思議な演奏である。もしかして「自力を極めてこそ生まれる他力」というものを掴まえている指揮者なのだろうか? 何にせよ、両者を介在する大いなる存在について考えない訳にはいかない。(←なんじゃそりゃ。)
 結局、当盤評については具体性欠如のままに終わってしまった。もちろん前半部の執筆でエネルギーを使い果たしたためである(責任転嫁)。

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