交響曲第9番ニ短調
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
61/11/20〜22
EMI TOCE-59011

 9番専門サイト(ここ数年更新止まったまま)の人気投票では圧倒的な支持を集めている演奏である。(2001年6月25日現在、145人による獲得ポイント90点は2位のジュリーニVPO盤の45点を大きく引き離している。)そこのオーナーの当盤に対するコメントは「枯淡の境地!」である。また、ブルックナー総合サイトのオーナーも同じく「表現が淡泊」と評している。(ただし、「(最初は)物足りない気がしないでもないが、聴いているうちにこれは仙人が指揮しているのではないかと思えてくる」のような肯定的評価である。)では私はどのように思ったか?
 まずディスクを聴く以前に第3楽章の20分11秒というトラックタイムに驚いてしまった。ちょっとあり得ない数字である。これを誤植だと思ったというコメントをネット上で目にしたことがあるが、当然であろう。それが事実なら両端楽章のバランスがメチャメチャだから。あるいは20%ほどの大カットでも施したのか? 実際に聴いてみた。どうやら終楽章では全くカットはしていないようである。つまりテンポが異常に速い。冒頭の爆発もアッサリした感じ。その後も部分的に遅くなることはあっても全体としてはスタスタと流しているように聴こえた。指揮者はこの曲にあまり興味がないんじゃないかとすら思ってしまったほどだ。
 ところが、バイエルン放送響とのライヴ盤を聴いてそういう印象がひっくり返った。こちらもテンポは速いが、ところどころで何かに憑かれたかのように暴れまくっている(そちらのページも参照)。とにかく熱い演奏で、「どこが枯淡や」と激しく抗議したくなった。その後「クラシック名盤・裏名盤ガイド」を読み返していた際、「ジュピター」(モーツァルト)のページを執筆した倉林靖がシューリヒト&VPO盤を挙げつつ「常々わたしは、シューリヒトの本質は枯淡ではなく豪胆だと思っていた。それは彼のウィーン・フィルとの最良のブルックナーなどを聴けばわかることである」とコメントしていたのが目に留まり、まさに我が意を得たりと思った。最近見つけたある掲示板でも「シューリヒトは本当に枯淡・淡泊か?」というテーマで中身の濃い議論がなされていたが、結局のところは宇野功芳が貼ったレッテルが一人歩きしてしまった結果ではないか、というところで落ち着いたようである。(ちなみに、投稿者は必ずしも宇野の文章に対して否定的ではなかった。)中には宇野の再生装置に言及し、彼が「枯淡」等のイメージを抱いたのはそのせいではないか、と書いていた人もいた。確かにそれもあり得ることである。ならば、録音やマスタリングが少なからず影響することだって考えられるではないか。8番VPO盤ページのおまけで触れた「レコ芸」誌上の歌崎&松沢対談では、シューリヒトのブルックナー89番のARTマスタリング盤と「通常盤」(ここではCD初期の旧式マスタリングによるディスクを指す)との比較において、「通常盤ではありがたみが感じられない」(歌崎)、「なんでこの演奏が名演といわれているんだと不思議に思った人もいるかもしれない」(松沢)というコメントが出されていた。つまり、ART以前のマスタリングでは凡演にしか聴こえないということである。ちなみに、上述した「仙人」云々の評を書いていたウェブマスターが聴いたのは、ARTシリーズ直前のHS-2088マスタリングによる国内盤(TOCE-3069)であった。要は、実際には「枯淡」とはほど遠い演奏であるにもかかわらず、聴き手にそのように感じさせてしまうようなマスタリングは犯罪に等しい行為ではないか、ということが言いたかったのである。
 さて、私が最初に入手した9番VPO盤も、実は(運の悪いことに)8番と同じく「2088倍歪みが凄まじい」マスタリング盤であった。卑怯にも浅里と松沢がARTとの比較を避けた(逃げた)マスタリングである。が、私は許光俊が「こんな名盤は、いらない!」でボロクソに書いていたことが見事に当てはまると思った。許は89番を聴いて、(金管楽器が存分におごられた曲にもかかわらず)ダイナミック・レンジの極端な狭さをまず第一にいぶかしく思ったそうである。特にこの9番では、本来なら強大な金管楽器が圧倒的な暴力性をともなって現れるはずなのに音量の振幅が小さすぎるというのである。私もそれは思った。ただし、60年代初めの録音ではそれも仕方がないかという気はする。ワルター&コロンビア響のステレオ録音と比べたらマシである。(ブラームスのページには、ワルターの1番について「箱庭録音」と書いているものの、曲によってはそれゆえの良さが発揮されているものもある。)それよりも私が我慢できなかったのは全体を支配する「ガヤガヤ感」である。とにかく音量の大きいところは騒がしくて耳障りなのである。特に第1楽章の「インフレーション」から「ビッグバン」まで、あるいはコーダといったこの曲では白眉ともいうべき聴き所で思わず耳を塞ぎたくなるのは致命的である。これでは苦痛なだけで到底聴いていられない。ので、実際ほとんど聴かなかった。後にART盤を入手しなかったら「論外」に加わっていたところだ。(フェドセーエフの「論外盤」のように叩き割るのは我慢したが、ART盤入手後に人に譲ってしまったのは言うまでもない。)このマスタリングにしたところでキンキンした不自然な音で、決していいとは思っていない。(例えば、有名な「バイロイトの第九」のART盤は壁1枚が間に入ったような疎外感のある響きで、Referenceシリーズの輸入盤よりハッキリ劣る。→2005年6月追記:ほとんど無傷のオーストラリア盤を復刻したというCDが先月発売された。ネット評は好意的なものが多かったし、いわゆる「板起こし」を聴いたことがなかったため「お手並み拝見」という気持ちでつい買ってしまった。確かに生々しさや音の深さは既所有のCDより断然上である。特に独唱者4名の掛け合いでの鮮明さが印象に残った。ノイズも危惧していたほどではなかったが、車の中で聴く場合には弱音部でパチパチ音が結構気になるので、Reference盤も取っておかざるを得ない。復刻盤以外では最も音がよいとされるTOCE-6510、いわゆる「足音盤」が根強い人気のため再プレスされているようなので、少々割高でもそっちにすれば良かったのかもしれない。このレーベルの新品を買うのは癪だが。ところで、ネット通販の宣伝文句を読んだ時には全く見落としていたのであるが、私は購入後にブックレットを開いてから、このTKC-301を製造・発売した「オタケンレコード」が社長名らしき「太田憲志」に由来することに遅ればせながら気が付いた。てっきり「オタケン」は「オタク研究会」の略だと思い込んでいたのである。)とはいえ、「歪みが2088倍盤」よりははるかにマシであるので、ここからはART盤を聴いての感想を書くことにする。(なお、当盤の入手経路については書かない。)
 このマスタリングで聴くと、とにかく無茶苦茶な演奏に聞こえる。第1楽章2分28秒(「インフレーション」と「ビッグバン」の境目)からの許し難い加速。3分少し前からの「シシシッシーシシシシミーラー」の最後の2音を「ミッラ」とぶつ切りにするのも不可解。ここは宇宙創造の最初の難関を越えたところ。神は達成感に満たされている。山頂に立った時に全身で伸びをするがごとく、ここも思いっ切り開放的に鳴らして(伸ばしすぎるほど伸ばしても構わない)から全休止にするべきだと思う。そうしなければ大仕事が終わったという区切りが付かない。何を考えているのか? 既に他のページでも書いていると思うが、当盤ではこの楽章のコーダで金管の「ダダーン」が全く聞こえない。指揮者がこの曲をちっとも解っていない証拠である。ただし、当ページ作成にあたって当盤を久しぶりにじっくり聴いたところ、以前ほどグチャグチャとは思わなかった。スクロヴァチェフスキやヨッフム、あるいは指揮者FやAなどはもっと酷い加減速をやっているので、少しは免疫ができたのかもしれない。
 第2楽章はシューリヒトの暴れ回るスタイルとピッタリ合っているので、ここだけは合格点である。そして、上に書いたようにバランス完全無視の終楽章。彼は何を血迷ったのだろうか? 第1楽章も20分そこそこであれば、百歩譲って全曲にわたって快速テンポを貫いた演奏として評価することもできなくはないのだが、これでは指揮者が何をやりたかったのかが全く不明である。特にハ長調による「ドーレファファ」がスタスタなのはやはり腹が立ってくる。ここを速くやる意味は全くない。この大爆発は、神がこれまで築き上げてきたものを自分の手で壊してしまうという大イベントなのである。その重要性を理解して音にしなければ、その後でいくらもっともらしく音楽に表情を付けても何にもならないのだ。それにしても8分30秒過ぎからは金管が勝手なことをやり始めたのか、不協和音のオンパレードのように聞こえるのはいったいどうしたことか? ここでの金管の暴力性は凄い。(許が書いたことは当てはまらない。)それが感じられたのはARTのお陰かもしれない。コーダをレガートでやっている。(最初は何が起こっているのか解らなかったが、浅岡弘和のサイトで遅播きながらレガートと知った。ちなみに彼は「採らない」と書いている。)確かに美しいには美しい。しかし、そこから急にテンポを速めて演奏しているので、単に「やりたいからやった」というレベルで終わっている。許が「クラシックの聴き方が変わる本」で書いていた「部分こだわり」のまさに典型ではないか?
 このディスク評が主観丸出し(しかもグチャグチャ)であるのは自認しているが、9番目次ページ下に書いた妄想に忠実に従って書いたら、どうしてもこうなってしまうのはやむを得ないという気がする。ただし、音質についてはある程度の客観性を保って書けていると思う。

追記
 当盤の音質に関して、ブルックナー専門サイトへのある投稿では「ノーマルリマスタの旧輸入盤より若干高音がきらびやかに感じるものの、音質面での決定的なアドバンテージは感じない。むしろ旧盤の方が自然な印象である。」とコメントされていた。なお、その執筆者にしても「音の汚い旧国内盤HS-2088シリーズ等でお聴きの方には是非買い直しをオススメする。」と述べている。

追記2
 アイヒホルンおよびアーノンクール盤のディスク評作成中に気が付いたのだが、浅岡弘和は自身のサイトでこんなことを述べている。

 そもそもブルックナーの最も典型的な第1主題提示法は部分動機が
 盛り上り巨大な落下する主題となるベートーヴェンの「第9」がモ
 デルになっている。「第3」と「第9」の第1楽章、「ロマンテイッ
 ク」のフィナーレそして未完の「第9」のフィナーレもそうなので
 あるが、ここもベートーヴェンに似ている。尻軽なアッチェレラン
 ドをかける人も多いが興醒めだし、いっそ皆があきれる程、遅いテ
 ンポを採り巨大な表現を目指すしかないのかもしれない。

ということで、シューリヒトも9番第1楽章の第1主題群を提示する前に尻軽アッチェレランドをかける「興醒め指揮者」の1人であるはずなのに、どういう訳か浅岡は「全くオーソドックスで『まさにその通りであらねばならぬ』まるで百年前から存在していたかのように感じられる名盤」として当盤を非常に高く評価している。しかも、シューリヒトは例外なく「尻軽攻撃」をやってくれているけれども、それが最も著しい(酷い)のは他でもない当盤なのだから私には全くもって不可解である。

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