交響曲第6番イ長調
ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団
81/10/13〜14
0RFEO OCD-2020

 当盤の解説執筆者は例の御仁だが、冒頭から「オーケストラの機能を知り尽くしたサヴァリッシュが、その指揮技術の粋を発揮して極めて音楽的に仕上げたブルックナーがここにある」と絶賛している。(例によって「音楽的」は全く意味不明だ。)その後も「オーケストラの音響面においては無上のものといえよう」などと賛辞のオンパレードである。また、第2段落では「全体にティンパニを抑えたバランスがブラームス風であり、ブルックナーの素朴な豪快さを失う結果になったり、アダージョの高弦が部厚すぎてデリケートな詩情を欠いたり、フィナーレのトランペットが明るすぎたり」を例に挙げて「ブルックナー党には疑問もあるかもしれないが」と述べつつも「それらの特徴は管弦楽を見事に響かせるという点では欠くことの出来ない要素であり、この面におけるサヴァリッシュの才能は流石である」としっかりフォローしている。ま、ディスク解説ではとりあえず褒めておくというのがこの評論家の常套手段だから別に驚くには当たらないけれども、どうせ「レコ芸」の月評などではクナや朝比奈を持ち出して「彼らと比べるといかにも魅力に乏しい」などとケチを付けて「凡演」扱いしていたに違いない。それほど彼は私にとって「ある意味で信用の置ける評論家」である。なので(?)私も難癖を付けることにした。これはヴァントのケルン全集ページにて触れたが、「(5789番のような)大作よりは、規模の小さいシンフォニーにベスト・フォームを示す」として、その発売時に宇野は36番を最高傑作と評したらしい(6番NDR95年新盤のブックレットで言及)。ところが当盤の曲目解説では、この6番こそスケールが小さいとしているものの、最初のグループ(0〜2番)の次、すなわち「第3」と「第4」の2曲でぐんとスケールが大きくなると書いていた。(なお、私は3番の規模が小さいという考え方に対し既にあちらで異を唱えている。)このような一貫性の無さこそが出鱈目批評の出発点であるのはいうまでもないが、どうやら彼はその自覚がないままにキャリアを終えそうである。気分が晴れたので戻る。それにしても「ティンパニを抑えたバランスがブラームス風」というのは全く訳が解らない。ならば、交響曲第1番で楔を打ち込むがごとくティンパニを最強打させる指揮者は「邪道」ということになるのだろうか? それは本ページの主題ではないから措くとして、確かに当盤の響きは地味なことは地味である。
 第1楽章冒頭の「チャッチャチャチャチャ」は相当神経質で、サヴァリッシュの潔癖な性格がそのまま音になったようである。(かつて中日新聞で読んだ話だが、愛知県芸術劇場のこけら落としコンサートのこと、「4つの最後の歌」で1曲終わるごとに拍手が起こったため気分を害した指揮者は、ついに我慢できなくなって振り返り、「シーッ」と大袈裟な身振りによって観客を制したという。)0分48秒からの主題提示でティンパニはそれなりに鳴ってはいるもののショボイ音、しかも先走り気味なので小ぢんまりした印象を受けてしまう。もちろん例の「脳細胞破壊盤」のインパクトには遠く及ばない。以降も弦の執拗な刻みが時に耳に付くばかりで、全く盛り上がらぬまま終わってしまった。特にコーダについては「何故にここまでつまらなく演奏するのだろう」と首を傾げてしまったほどである。結局のところ、全曲聴き終えても渋くて控え目という印象は一度も覆されることがなかった。とはいえ、鈴木が評したように堅実そのもので綻びのない高完成度演奏であるのは事実。神経質さではヴァント盤(3種)のはるか上を行っている感じで、それが功を奏しているのだろう。録音は極めて優秀で、適正範囲の残響がスケールの小ささをある程度補填している。
 砂川しげひさの「なんたってクラシック」には、マーラーの「復活」しかクラシックは聴かない(というより、ほとんど知らないに等しい)という編集者Kが登場する。著者によると「ぼくはKは生涯、クラシックとは無縁の男になるだろうと予感した」とのことで、さらに「下世話なたとえだが、処女がはじめて身をまかせた男が、とんでもない放埒者だったために、身を持ちくずしていくといった図式と同じだ」と続けていた。そうなると、私にとってはショルティ盤がそれに相当するだろうか? 6番目次ページも書いたが、(実はCDカタログの評価はショルティ盤が「推薦」、当盤が「特選」だったにもかかわらず)わずか100円の価格差で落選してしまった当盤をあの時に入手し、その品行方正サラリーマン型の演奏を最初に耳にしていれば、私も真っ当な人生を歩むことができたのではないだろうか? 直後こそ「地味でしょうもない曲やなあ」と思ったかもしれないが、次第に愛着が湧いてきて「6番最高傑作説」を唱えることになったに違いない。(今となっては知る由もないが・・・・)

おまけ
 本ページ執筆中に「〜名匠サヴァリッシュ、音楽に生きる男の詩〜」というブログを見つけた。その6番ディスク評冒頭の「ブルックナーという作曲家が好きな人でも、この曲を常に聴く人はいないだろう。なぜなんだろう?と思う。こんなに美しいのに。。。」というコメントから、執筆者が6番に愛着を抱いていることは明らかであるが、さらに「偏りのない世界が繰り広げられるサヴァリッシュのスタイルが極めてマッチしている」として指揮者への賛辞も述べられていた。ネット上でサヴァリッシュのファンを公言しているというのは極めて珍しい存在のように思うが、指揮者の「中庸の美学」のお陰で曲の良さに気が付くことができたのであろう。ちなみに、そのページは「音の浜辺に佇んでじっと彼方を見るサヴァリッシュ。名匠の眼にはなにが映っていたのだろうか。。。」で締め括られているが、思わずフィリップ・グラスにオペラの作曲を委嘱したくなってくるような感動的エンディングである。やはり出会い(特に最初)というのは重要だ。
 ついでながら、あるクラシック総合サイトの作成者は「6番から録音を始める指揮者のブルックナーは避けた方がいい」というジンクスを持っているらしく、サヴァリッシュやティントナーが槍玉に挙がっていた。「第6番はブルックナーの交響曲中、最もつまらないものではなかろうか。よく第6番から録音を始める指揮者がいるが、それだけでも彼がブルックナーに適性を有しないことを示すように思う。」「6番はブルックナーの9曲の中では最も不出来な曲に入ると思うが(それなのに6番から録音を始める指揮者が少なからずいる。いつも不思議に思う。)」等まさに言いたい放題である。明言こそされていないようだが、ひょっとして彼も最初に聴いたのがショルティ盤で、それから回復不可能なダメージを受けたのだろうか? 被害者の一人としてはちょっと気になる。

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