交響曲第9番ニ短調
ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団
85, 88 (Finale)
BMG (MELODIYA) BVCX-38015〜6

 当盤収録の演奏は補筆完成版を使用しているが、復元されたフィナーレについてはインバル盤ページにも書いたように、詳細な解説の付いたアイヒホルン盤のディスク評執筆時に触れようと思っている。あるいは、再来月あたりに作成するかも知れないページにて。ということで、ここでは1〜3楽章までを収めたDISC1についてのみコメントする。(当盤のトラッキングは非常にありがたい。通常は作曲者が完成させたところまで聴き、第4楽章まで聴きたい時のみDISC2を再生する。それが可能だからである。インバル盤はプログラムしない限り強制的にトラック4が始まってしまうし、無理矢理にフィナーレを聴かせようとしてDISC1は敢えて第2楽章までにとどめ、残りをDISC2に配したアイヒホルン盤は言語道断である。未完の終楽章を聴くか聴かないかの選択肢はリスナーに与えられるべきだ。)
 テンポの急激な変化には極めて脆弱なこの曲だが、その設定については常に的確なこの指揮者のことだからたぶん大丈夫だと思っていた。それは予想通りだったし、(これは危惧していたのだが)ビックバンが必要以上に騒がしくなっていないのも好感が持てた。けれども、例の木管ソロ全面攻撃にはさすがに違和感を覚えた。このように楽器が裸で出てくると、同じ9番でもマーラーを聴いているように錯覚してしまう。これでは9番目次ページに延々と書いたストーリー(妄想)がまるで成立しなくなってしまうのだ。立ち上がりこそ「神と梵天の対話」だが、以後は登場人物が多すぎて誰が誰だったか判らなくなってしまう「戦争と平和」のようだ。(そういや国は一緒か。)まるで大勢いる神が合議制で宇宙を創造するみたいだ。というより、こんなつまらないこだわりを捨ててしまえば、この演奏は結構聴ける。繰り返すが、確固たる基本テンポが設定されているからである。(浅岡弘和流に言えば「造形がしっかりしている」ということになろう。)当盤のトランペットも決して安っぽくはないがメタリックで非常に鋭い音である。大昔に聴いた0番と同じく、そして一部のリスナーや評論家は嫌うだろうが、これは相当に「無機的」な演奏であると思う。既にショルティ盤ページに「無機的でどこが悪い」などと書いたが、以後はこの点について脱線してみよう。
 鸚鵡返しのごとく、何かといえば「有機的=善」のような論調で批評を書いている連中は、実は何も考えていないのではないかと私は疑っている。有機物の方が無機物より価値があるなんて誰が決めた? (プラチナも金も無機物だ。炭素はダイヤモンドとなって初めて金銭的価値で上回れる。)そもそもこんな比較は無意味である。どうしても有機的な演奏の方が優れていると言いたいのなら、まず演奏における「有機的/無機的」の定義をしっかり行った上で、優劣の根拠もちゃんと付けて主張するようにしてくれ。ということで、私は「ブルックナーは無機的演奏の方がいい」を自分なりに書いてみる。
 比較的安定な無機物と異なり、有機物は分解しやすい。十分な酸素が存在する条件では好気的微生物により水と二酸化炭素にまで分解されるが、そうでなければ嫌気的微生物の活躍する場面となる。さて、これを強引に音楽に当てはめてみることにする。曲想の変わり目や音量指定のたびにテンポをコロコロ変えるような演奏スタイルを「有機的」とするならば、それは富栄養化した(=窒素やリンの含有量を多く含む)川や湖の水のようなものだ。貧栄養状態の水は澄んでいるが、富栄養化するとプランクトンが繁殖して緑がかってくる。(近くに琵琶湖があるので、どうしてもこんなことを考えたくなる。そういえば、数年前にサマースクールを受講する学生の引率役として渡米した際、遠足で米加国境のスペリオル湖を訪れたが、周辺人口が少ないためにNやPの流入もあまりなく、お陰で水は透明そのもの、そして気味が悪くなるほど生き物がいなかった。)それでも水がちゃんと流れている分には大丈夫である。ところが、ひとたび澱んで酸素の供給が途絶えたらどうなるかといえば、当然ながら腐って嫌な臭いを立てるようになる。(雑草の発生を抑えるため水田に屑大豆を放り込んだ数日後の酪酸による腐臭を思い出してしまった。あれは強烈だった。)だから、流れが澱むようなことをしてはいけないのである。そういえば、マタチッチも「テンポが澱んだらブルックナーではない」などと語っていたらしい。特にこの9番は絶対にダメだ。だめだといったらだめだ。(ここで論理に抜けがあることに気が付いた。ならばあらゆる音楽についても同じはずである。これは拙い。まあ、ベートーヴェンのようなアクというか「人間味」の強い音楽では、嫌気的条件下でも「腐敗」ではなく「発酵」が起こるから、で逃げておくことにしよう。麹菌や乳酸菌などによって生成されるアルコールや有機酸の濃度が十分に高ければ、他の雑菌は繁殖できないのである。ゆえに適度に「有機的」な演奏であれば、エタノールの作用でいい気分になることも可能である。→ちょっと弱いという気がするので、もっと整合性のあるストーリーができたら差し替える。)
 さて、当盤には「腐敗」の心配はない。けれども、第1楽章13分48秒にずさんなテープの繋ぎ跡。ヘッドフォンで聴いてみたら他にも不自然な箇所があって非常に残念である。当盤ではヴァイオリンが非常にパワフルで金管とも互角の勝負を挑んでいる。21分10秒からのフォルティシモは壮絶、そして23分34秒以降のコーダはさらに凄い。まさに「宇宙が鳴り響く様」である。そう、マーラー8番のラストのようである。残響タップリの録音はこの曲のスケルツォではプラスに作用することが多いが、当盤でもそれは当てはまっている。(ここで言っても何にもならないが、ヴァントのリューベック盤もこの位の残響なら評価はずっと高くなっていたはずだ。)時に木管楽器のための協奏曲状態になるけれども、妙に幻想的であるため、先に書いたようにマーラーだと思って聴けば悪くない。が、終楽章1分48秒〜と2分12秒〜の爆発がともにリミッターによって音量を絞ってある。これでは興醒めだ。4分14〜37秒で弦が主題を弾くところの溶け合った響きはあまりに異様で、こういうのにすっかり慣れたはずだったのに一瞬引いてしまった。とはいえジックリ聴くと面白い。ところがである。4分50秒にてまたしてもヘタクソ編集。えーかげんにしいや! せっかくの熱演が見事なまでに台無しにされている。それでこれ以上聴く気も書く気も無くしてしまった。酷すぎる。
 これがロジェヴェン盤ディスク評の最後になるので、気を取り直して総括してみたい。かなり高密度&高水準の演奏であるゆえ、聴後の印象は決して悪いはずはないけれども、「ブルックナーを堪能した」という思いはあまりない。(実は今日一日で5〜9番まで聴いて評を作成したのであるが、それにもかかわらず。)一言で片づけるなら「異色演奏だから」で済んでしまうけれども、強いていえば高カロリーで栄養バランスも抜群のサプリメントを摂取した後の満腹感に近いということになるだろうか。(どうにも月並みな喩えでつまらん。)

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