交響曲第7番ホ長調
ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団
85
BMG (MELODIYA) BVCX-38011〜2

 当盤にはあまり期待していなかった。なにせパートバランスが独特の「ロジェヴェン・サウンド」だから、美しさが命のこの曲ではろくな演奏になるはずがない。第1楽章1分40秒過ぎの盛り上がりは危惧していた通りの騒がしさで、「そら見た(聴いた)ことか」と思った。ところが、5分07秒や6分17秒のピークに登場する金管は決してバランスを壊していない。6番同様、音の丸いトランペットのお陰である。(例の「金切りラッパ」なら全てぶち壊しになってしまうところだ。)ここまで聴いてようやく安堵の胸をなで下ろした。
 冷静に聴くと、残響の多さと木管ソロ全面こそ耳に付くものの当盤で聞かれる文化省響の響きはそんなにヘンではない。この演奏で印象に残ったのはヴァイオリンの刻みとチェロの弾く旋律、つまり高い方も低い方も弦の美しさである。7番の特性に合わせて指揮者 and/or エンジニアが調整したのであろう。素晴らしい。東側に出回っていたハース版がここでも使われているが、それに合わせて速めの基本テンポを設定し、揺さぶりも控えめにしているのはさすがである。ただし、そこまで考えていたのならこの風呂場録音は何とかならなかったのかと言いたい気もする。(他に使用可能なホールはなかったのだろうか?)この曲だけは残響少なめのスッキリした音で聞きたかったところだ。アダージョを聴いていると息苦しくて仕方がない。
 そのアダージョであるが、木管ソロの美しさ全開である。同国人だから当然かもしれないが、ムラヴィンスキー盤とも少し似ているように思った。ただし、あの神経質さは全く感じない。きっと大らかな性格の人なんだろう。惜しむらくは16分18秒から入ってくる剽軽ラッパの音。それまでは普通の音だったから、「何故にいきなり?」と首を傾げてしまう。派手派手の格好をした人が葬儀場に駆け込んできたかのような唐突さ、そして場違いさに当然ながら幻滅を感じずにはいられない。
 7番評は前半2つの楽章の印象を述べたら後は流して終わり、というのがだいたいのパターンである。ところが当盤はそれを許さない。スケルツォは冒頭こそまともだが、0分25秒の木管パートが異様。再現部も同様で、他に挙げていったら枚挙にいとまがない。「木管楽器というのはブラスよりも大きい音が出るんだな」と思ってしまうだろうから、クラシックを聴き始めて間もない人間には絶対にこの楽章を聴かせてはいけない。0分44分のティンパニは爆撃のようである。3分18秒からのはもっと凄い。金管も負けじと応酬し、この楽章が全曲のピークであるかのように力のこもった熱演が繰り広げられている。あるいは優等生ぶって上品に演奏しているのが嫌になったのだろうか? 終楽章はテンポにメリハリがきいているが、こういうのはノヴァーク版でやってほしい。それまでのテンポを全く無視したコーダ(10分25秒以降)のノロノロには辟易させられたが、これは朝比奈による7番75年盤の第1楽章にも匹敵する暴挙である。ということで、前半と後半とでは相当に芸風が異なっているが、まさか後半楽章は双子の弟が振ったのではあるまいね?

おまけ
 ここでも8番解説書から宇野功芳による当盤収録の演奏についてのコメントについてコメントしたい。「明るい音色とこぼれるような愉悦、艶やかな歌、華やかな色彩」まではいい。その先だ。

 こんなにニュアンス豊かで耽美的なブルックナーも珍しい。
 その点ではカラヤン以上だ。スコアが目に見えるようなメリ
 ハリの効果、音の洪水といいたい派手な趣に満ちているが、
 一概に外面的な演奏とはいえない愉しさが抜群であった。

「どうせここでもカラヤンを『外面的』として(間接的に)貶めるためにわざわざ持ち出してきたに決まってる」というのはあまりにも意地悪な見方というものだろう。ただし、上の「一概にいえない」の「なぜ」「どのように」が全く述べられていないのはいただけない。(あるいはどこかに書いているのだろうか? ちなみに私が所有する67番BMG国内盤2枚組の解説者は宇野ではない。)とはいえ、少なくともブルックナーの演奏については「外面的」や「無機的」でもちっとも悪くないと考えている私には、仮に彼がちゃんと説明してくれていたとしても納得いかなかった可能性の方が高いが・・・・

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