交響曲第5番変ロ長調
ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団
74/08/10(84/07?)
ICONE ICN-9430-2

 ロジェストヴェンスキー&モスクワ国立放送響の来日公演を聴いた吉田秀和は、指揮者の凄腕に「降参」し、「これは大変な指揮者である」と感心したけれども、「正直いって、私は閉口した」と「世界の指揮者」に書いている。「ごり押しで、力ずくでねじふせるという行き方」のソ連のスポーツと同じカテゴリーに属するということだ。当盤はまさにその典型のような演奏である。ところで、吉田はロジェストヴェンスキーの演奏に対して「音楽から≪詩≫が、余韻がなくなり、おのずから人を魅惑する自然な暖かみといったものが乏しくなりがちなのだ」「出てきた音楽には、どうしても、知的で透明なもの、あるいは音楽の気品、精神美、清澄さといったものが感じられない」と述べていた。このうち後者の不満の方が「閉口」の大きな要因ということだが、その原因については「対位法的なものが、あまりにも考慮されない」せいではないかとも考察していた。もしそれが本当なら「対位法オタク」(by 浅岡弘和)のブルックナーの交響曲演奏にとっては致命的なはずである。特に「対位法におけるブルックナーの最高傑作であると考えられている」(日本百科事典、encyclopaedicnet.com)この曲においては。
 しかし、わたしは当盤を聴いてもそうは感じなかった。主旋律が他を圧してしまわないような配慮はちゃんとなされている。むしろ、時にメロディより目立ってしまっていることも少なくない対旋律には「オマエは引っこんどれ!」と言いたくなるほどだ。(ちなみに吉田も「考慮という言い方は正確ではないかもしれない。ロジェストヴェンスキーの目が見逃すものは何一つありはしない」とフォローしていた。)とはいえ、この演奏の騒々しさは普通ではなく、私も所々で「やりすぎと違うか」と思ったことは事実である。某掲示板のこの曲の単独スレッドにて「ロジェベンだけはかんべんしてくれ」という書き込みがあったが、そう言いたくなる気持ちも理解できる。既に同じようなことをどこかに書いた記憶があったので探してみたら、4番のカラヤン75年盤ページに見つかった。そういえば、カラヤン&BPOの演奏については「重戦車」という形容が時に使われるようだが(そして私もよく使う)、当盤はとてもそれどころではない。やはり金属の塊に喩えるなら戦艦並の重量感だが、陸上では自重を支えられないほどに巨大化してしまったシロナガスクジラをも思わせる。吉田は「時代がかって、ロマンティックで滑稽」と書いていたが、確かに時代錯誤的である。(なお、ブックレットに記載されている上記の録音年月日であるが、あるネット評ページの「BMG全集収録のMelodiya音源と同一演奏」というコメントが本当ならば84年7月ではないか? そもそも文化省響の設立は82年のはずである。当盤の輸入・発売元は「株式会社 ビクターミュージカルトレーディング」とあるが、もし本当にビクターの関連企業だとしたら、「いったいどういう教育をしてきたんだ」と親会社に文句の一つも言いたくなる。)そのように感じさせるのは、オケのパワーだけでなく録音も大いに貢献している。カラヤンの47番EMI盤の音質を私は「熱帯夜」と評したが、当盤の重苦しさはそれをはるかに上回り、朝から晩まで高温多湿の熱帯雨林(ジャングル)にいるようである。ただし、例の滑稽ラッパのカラッとした音色が救いとなって、不快指数はさほど高くない。(もしあれがなかったら、と思うとゾッとする。)第1楽章13分22〜29秒は何度聴いても笑ってしまう。こんな響きが聴けるのは当盤だけである。
 ところで、当盤はてっきりシャルク改訂版に指揮者の演出を上乗せしたものだろうと思い込んでいたのだが、ケース裏には 「原典版/ロジェストヴェンスキー編」と表記されており驚いた。(ちなみに英語では "Arranged by G. Rozhdestvensky afer the original version" である。それにしてもこの指揮者のスペリングは難しい。カタカナ表記から綴りが想像しにくいということでは、Dohnanyi、Skrowaczewskiを加えて三羽ガラスではないだろうか。KonwitschnyとChaillyは独仏語の心得が少々あるので何とか書けるが・・・・)どうやらハース版を下敷きにしているらしい。確かに第1楽章の終わりにはティンパニのドンチャン騒ぎもないし第2楽章もフツーに終わる。「俺の思った通りやらせてもらう」と考えていた指揮者にとっては、シャルクの厚化粧は邪魔だったのであろうか。とにかく異様な響きに圧倒されっ放しであるが、よく聴いてみると基本テンポの設定は妥当、急に走り出したりブレーキを踏んだりもしない。演奏自体は至極真っ当である。もちろん終楽章コーダは別だが。
 さて、その指揮者編曲によるエンディングであるが、ひっきりなしに吹き続けるトランペットに完全に耳を奪われてしまって、対位法とか主旋律の引き渡しがどうだとか、そんなことはとても考えているどころではなくなる。聴き終わってしばらくは「パッパカパッパ」という音が耳を離れない。この演奏は間違いなく脳を破壊する。(ショルティの6番と同じである。)ちなみに、「いままで聴いてきた5番の演奏の中で、一番好きな演奏です」というコメントを載せている人がいた。お気の毒に・・・・(←いらんお世話じゃ!)それにしても、ロジェストヴェンスキーがシャルク版による録音を残さなかったのは人類にとってまことに幸いであったとつくづく思う。どんな修羅場となっていたことやら。

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