交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(1874年第1稿)
ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団
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BMG (MELODIYA) BVCX-38007〜8

 完全無欠なるウッカリ入札(そしてそのまんま落札)の産物である。既にロジェヴェンの4番はマーラー版のディスク(ICONE盤)を持っていたが、やはり最もオーソドックスな第2稿を聴かねば話にならんという意識は常に持ち続けていた。(もしその気になればVeneziaが2006年に発売した廉価11枚組を入手する手もあったのだが、コストパフォーマンスのあまりの悪さ、つまり未所有音源のうち欲しいのが3番と4番のともに2稿だけで5番以降がことごとく被ってしまうという恐るべき状況を考えたら買う気が失せてしまった。HMV通販のユーザーレビューにて「いまいち」の評価を付けていた人の「異稿が収録されないんじゃ、復刻する意義が薄いなぁ・・。期待してただけに、この中途半端な復刻は残念。」というコメントは至極もっとも。そして今では限定盤完売で入手不可とのことである。)
 そんなある日、このBMG国内盤2枚組をYahoo!オークションで発見。開始価格は決して安くなかったし、2枚目収録のマーラー版がモロ重複するのも気になったが、先述の使命感により入札に踏み切った。(また1878年稿フィナーレが未聴だったことも後押しした。そのためだけにティントナーの00番に手を出す気にはなれなかったし、iTunes Storeにて件のトラックだけ買おうとしたが、怪しからんことに「アルバムのみ」の販売だったので諦めた。そういえば白神典子による "Piano Solo Works" の末尾に収められている7番アダージョも同じ理由でダメだった。かと思えば交響曲の一部の楽章だけをバラ売りしてたりするから訳わからん。少しは考えろ!)そして落札直後に致命的な錯覚に気が付いた。DISC1に収録されていたのは初稿だったのだ。D.R.デイヴィス盤がいくら安くとも、あるいは某掲示板にて「巨乳指揮者」(ただし「デブと巨乳は別物」という指摘もあった)としての人気も高いシモーネ・ヤングの最新盤がいくら(演奏・録音ともに)好評でも初稿演奏ゆえ私は敬遠していたというのに(泣)。とはいえ、入手してしまったものは仕方がない。気は進まないけれど、とにかく聴いて何か書かなければなるまい。
 そうはいってみたものの、普段滅多に耳にすることのない版だけに他のディスクと比較して具体的にどこが優れていてどこが劣っているのかなど判るはずがない。また、野暮ったさが残されたままの音楽だけに強烈無比を誇るロジェヴェン・サウンドが見事功を奏するのか、逆にふんだんに盛り込まれた前衛的要素をケバい音色が殺してしまうのか? それすらも定かではない。困った困った。
 確実なのはインバル盤より圧倒的に面白かったということ。第1楽章の中間部コラールなど安物ラッパの場違い感が凄まじく、笑いを堪えるのは非常に困難である。また再現部の出だしには「こんなに美しい箇所が初稿にあったとは!」と目を開かれる思いだった。以降の楽章について簡単に述べると、スケルツォとフィナーレでは超重量級のブラスとティンパニが威力を発揮しているものの、アダージョでは逆に仇となっている(終盤のクライマックスが笑えるため)ような気がする。終わり。(←逃げやがったな。)

おまけ
 DISK2トラック1収録のフィナーレ1978年稿について。こっちの方が74年版の終楽章よりも演奏時間が短くなっていたのは意外だったが、よくよく考えてみれば無駄なところを削ったのだからむしろ当然であろう。
 出だしがこれほど滑稽に響くとは思ってもみなかった。いくら聴き比べてみても4年の間にどう変わったのかは判らないが、もしかすると指揮者がメリハリを付けて弾くよう弦楽器奏者に指示を出していただけかもしれない。その後しばらくは74年版に楽器の受け渡しで耳を引かれる箇所もあったが、最初のクライマックスまでで聴き応えがあったのは断然78年版の方だ。ところが、その締め括り方が何とも尻すぼみ的でいただけない。(その問題点は第2稿ではキッチリ解消されている。)これならダラダラ進めてしまう初稿の方がマシだ。
 それ以降も文句なしに78年版の方が充実しているが、5連符やら唐突な転調やら不協和音的に響くところやらが聞かれなくなっていることに一抹の寂しさを覚えなくもない。要は痛み分けといったところか。(どうしても中途半端感が拭えず。)ただしコーダに関してはコールド勝ち。「ドーレドレードー、レードーレドーレー」のリズム感が何とも心地よい。(これをあのノロノロテンポでチェリに演ってほしかったなぁ!)最後の「ジャン」も圧巻だ。部分的には神がかり的な2稿のラストをも凌駕していると私は思う。

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