交響曲第8番ハ短調
カルロス・パイタ指揮フィルハーモニック交響楽団
82/05
LODIA LOCD783/4

 宇野功芳が国内盤の解説を執筆したらしい。以前ヤフオクで見た時は、出品者がそれを引用して「最もフルトヴェングラー的な演奏」などと紹介していたと記憶している。ちなみに「犬」のレビューには「宇野氏の解説も誉めてるんだが、けなしてるんだかわからん」とある。そういえばミュンシュ&パリ管のブラ1についても宇野は「フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラー的」などと書いていたが、結局はフルヴェンを尺度とすることでしか批評できないという彼の限界をここでも示しているといえよう。
 そんな人はひとまず措いといて、当盤は某掲示板やクラシック関係サイトでの人気は結構高いようだ。それゆえMHV通販のマルチバイ割引の3枚目としてカートに入れたのであるが、試聴するに先立ちネット評ページをいくつか当たってみた。長野のネット知人Kさんは「爆演横綱」に挙げて「ご存じ爆演大魔王パイタの猛烈演奏」とコメントされている。「君はカルロス・パイタを知っているだろうか?」で始まるブログにも「アルゼンチン出身の指揮者で、爆演系である」とあった。(ただし、そこでは「フルトヴェングラーに心酔したらいが、演奏自体は似ていない」と書かれていたし、他に「フルトヴェングラーには似ていないパイタのブルックナー」と題するページも存在することから、やはり宇野解説は口から出任せっぽい。)極めつけは「Viva! PAITA 怒れるラテンマフィアのボス、カルロス・パイタの楽園」というファンサイト掲載の「全編あばれはっちゃく鬼短気状態」という評(満点の5つ星評価)で、「パイタのイラついた顔や言動に、オケが実にエゲツない音を出しまくる」に思わず吹き出してしまった。(文章が少しヘンなのも演奏のハチャメチャぶりが反映しているかのようで面白い。)そこは「純粋ブルックナー信者は絶対に聴いてはならぬ」で結ばれており、他所でも「真面目なブルックナー・ファンには絶対嫌われるだろうなぁ」とのコメントを目にしたことから、純粋でも真面目でもない私が気に入る可能性は非常に高いと思われた。何といっても「82年に『フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラ』を組織し、彼の芸術を発表するための“ロディア”とも契約、続々と録音を開始した」(先述のファンサイトより)というまさに「我が道を行く」タイプの指揮者である。(なお、先述したサイトに設けられた指揮者の経歴紹介ページは必見である。確かに自分だけのオケを組織し、自分だけのレーベルを立ち上げるというのは「怪しくも羨ましいパイタの生き様」に違いない。ちなみに私はオケをずっとフィルハーモニア管と思い込んでおり、「ダヴァロスの7番もそうだったが80年代にはマイナー指揮者にも録音してもらわなければならないほど経済的に落ち込んでいたのだな」と勝手に納得していた。)まともな演奏をするはずがない。少なくとも笑えるものには仕上がっているだろうと予想し、商品到着を心待ちにしていた。いざ受け取ってみれば1枚収録にもかかわらず2枚組みたいな番号、やっぱり怪しい。(LP時代の番号をそのまま踏襲しているという話である。なおスイスで設立されたLODIAレーベルは既に廃業された模様。)
 さてさて、そろそろ感想を書かなければならない。まず上述のフルトヴェングラーと似てる/似てないは正直なところ判らなかった。大権現の49年3月15日盤(Archipel)との比較を試みてはみたのだが。確かにフルヴェンが気が触れたようにアッチェレランドをかけていた箇所(第1楽章中間部、第3楽章クライマックスの手前、あるいは終楽章のいわゆる「死の行進」など)はことごとく猛スピードですっ飛ばしている。が、だからといってパイタが生演奏あるいはディスクで聴いた先輩のスタイルに追従したとするのは早計だろう。私が考えるに、どこをどうやれば盛り上げることができるか(whereとhow)という問いに対しては、ある程度楽譜読みの経験を積んだ人間なら比較的容易に答えを見つけ出せるのではなかろうか?(そういうのを「皮相的な解釈」と言ったらコーホー先生は激怒するだろうな。)なので、出発点が異なっていても聴き手を興奮させることに主眼を置いた演奏ならば、少なくとも表面的に似通ってくるのは自然の理ということになるかもしれない。(進化でいう「相同」である。)何にしても、フルトヴェングラーのブルックナーをそんなに聞き込んでいない私に微妙な違いが分かるはずがない。(と言いつつも、「似てない派」の1人が自分でも抽象的と認めつつ挙げていた「深味」という理由については却下したい気持ちである。)また、最初から違うと思って接していれば共通点が見えてくるし、逆に似ているはずという先入観があれば些細な違いが気になってくる。そういうものである。これは様々な異文化理解の場面を見てきた私の率直な意見であるが、複数サイト間における見解の相違もこれで説明が付くだろう。さらに言うと、バレンボイムのディスク評にて「形骸化」とか「劣化コピー」などと評論家の受け売りも交えて散々扱き下ろしてきた私だが、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という本居宣長の言葉にも一面の真理があると解ってからは、模倣が全て悪いと決め付けるのは良くないと考えるようにもなっている。ただパイタは「やりたい放題」ではあっても決してフルヴェンのように猛り狂ってはいないし、ましてやドス黒い怨念が渦巻くということは全然ない。いたって健康的に暴れ回っている感じだ。(あまりのハチャメチャぶりに当方も「ポンポンスポポンバカテンポ」と口ずさみながら踊りたくもなる。)かといってレーグナーのようにアッサリ流したりももちろんしていない。よって彼は彼なりに独自の世界を確立していたと私は考えたい。とはいえ、このようなスタイルなら5番で聴きたかったという思いはある。あるいは先の第1楽章中間部ピーク前のブルックナーリズムがあまりの早足のため、まるで6番冒頭の「チャッチャチャチャチャ」のように聞こえてしまったことから、むしろ地味なこの曲を思う存分に料理してもらいたかったという無念な気持ちで一杯だ。どうも話があらぬ方へ進んでしまっている感があるが、当盤評が自分の手に余るように思われて仕方がないから勝手にそうなってしまっているのである。なので手短に済ます。
 類似性はともかくとして、これだけの爆演が比較的良好な音質で愉しめるのだから存在意義は十分ある。(一方、戦後録音にもかかわらず空爆で火の海と化したベルリンの惨状を思い浮かべずにはいられないフルヴェンのBPO盤も鑑賞価値は決して低くない。)「比較的」としたのは、第1楽章中間部で何度かレンジを振り切って音割れしているためである。惜しい。
 なお、終楽章のコーダでは両指揮者のスタイルの相違が聞き分けられた。フルヴェンは奏者が付いてこようが来られまいが全くお構いなしに突っ走る。既に書いたが「第九」のエンディングと同じだ。必然の結果として混沌状態のままに締め括られることになるが、そのお陰で広大な焼け野原のごとき壮絶な光景が浮かび上がる。それに対し、パイタの方は(録音のためだけではなく)響きがはるかに整理されているし、スタジオ(ホール)収録の利点を生かしているのかは知らないが着地をピタッと決めてくる。当盤を「エンタメ的には相当ポイントが高い」と紹介した通販サイトもあるが、これを演芸の一種とすれば確かにオチはちゃんと付いた格好だ。(某センセイも同じ芸風でいくなら見習うべきだった。)
 これで最後にするが、ブックレット裏表紙に使われている指揮者の写真が誰かに似ているな、としばし考えて思い当たったのが錦野旦(にしきのあきら)である。かつては真っ当な歌手として人気を得ていた彼だが、今では「スター」というお笑いキャラに転身しバラエティ番組で活躍している。当盤を聴けばパイタもお笑い路線まっしぐらであるのは明らかであるから、私は今後「クラシック音楽界の錦野旦」という異名で呼ばせてもらうことにした。他の演奏を耳にする機会がいつ訪れるのかは全く定かでないけれど。

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