交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
95/09
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 「ノリントン」という名前の指揮者が古楽器オーケストラとベートーヴェンの交響曲を録音していることはかなり前から知っていたが、アーノンクールによって古楽嫌いにさせられていたこともあって完全に無視していた。俄然注目するようになったのは、「ベートーヴェンのページ」に載せたように「ベートーヴェンの探求」をNHK-BSで観てからである。
 その番組ではリハーサル風景が度々流されたが、ポロシャツ&半ズボンというラフな身なりをした指揮者の怪しいことといったらなかった。見事に禿げ上がった頭頂部は某掲示板に書かれたように「落武者」を彷彿させるし、少々甲高いしゃがれ声からは、どうしたって胡散臭い印象を抱いてしまう。(ヴァイオリンを対抗配置させているため)両手を使って左右交互に指示を出していたが、それは指揮というよりはほとんどダンスに近いもので、女性奏者に近づく時の妙になまめかしい腰つきには思わず吹き出してしまった。また、インタビューで「『英雄』交響曲の第1楽章では至る所で表題的な要素を見い出すことはできる」として、ある部分を「ここは馬が全力疾走している情景である」と説明した後、楽員達の前で「チャンチャカチャンチャカチャンチャカチャンチャカチャンチャカチャンチャカ・・・・・」と馬の駆足を口真似していたのがとても可笑しかった。そういえば、彼は「音楽は刺激であるから、聴き手の頭の中で火花が散るような演奏でなければいけない」とも語っていたはずで、その点では例の「ハッタリ野郎」と似ていなくもないが、奴のようにやたら深刻ぶった表情を見せたりしないのが大違いである。その方が私にとって好ましいのは言うまでもない。(これが特定指揮者を毛嫌いしているゆえの感情的発言なのはもちろんだが、ストコフスキーとカラヤンを「エンターテイナー」として同類扱いしながらも「芸術家の仮面をかぶったカラヤンとは異なり、聴衆を愉しませることに徹し表現にウソがない」などとして前者を持ち上げた宇野功芳のやり口を参考にさせてもらった。ちなみに、飛行機嫌いなどと理由を付けて決して日本には来ようとしなかったクセして、京都賞がもらえると知った途端にヒョイヒョイ飛んでくるとは何と現金な奴ぢゃ、と勝手に憤っていたのであるが、どうやら2006年11月に予定されているアーノンクール&VPOの来日公演はそれとは関係がないらしい。これは失礼した。)映像が強烈な印象を残したに留まらず、彼の指揮棒から生まれるベートーヴェンの斬新な響きに衝撃に受け、その結果として後に購入することとなった交響曲全集によって私が初期作品(1&2番)の素晴らしさに開眼(開耳?)したのは既に記した通りである。
 こんな指揮者であるからブルックナーでは一体どんな演奏を聴かせてくれるのか興味津々であった。唯一の録音である3番(輸入盤のみ?)は長らく廃盤で入手できなかったが、ようやくにして2005年9月に上記の廉価盤2枚組という形で再発された。英語版ディスコグラフィサイトに掲載されている演奏時間(初稿使用でトータル57分台!)から少なくとも「まとも」な演奏でないことは明らかだったし、amazon.co.jpでの試聴によっても異様に速いテンポであることは予め知っていた。(ちなみに、初期盤と再発廉価盤のページでそれぞれ試聴できる音声ファイルは同一ではない。余談ついでだが、再発以降もマーケットプレイスで初期盤を約2万で売りに出している悪質あるいはボンクラ野郎がいるのは呆れてしまった。)そうでなければ間違いなくビックリ仰天していただろう。ふと思ったのだが、もしブルックナーが「1時間以内で終わります」という但し書きを付けてウィーン・フィルに演奏を依頼していたとしたら、この版で意外とスンナリ初演まで漕ぎ着けられたかもしれない。もちろん楽員から「速すぎて演奏不可能」というクレームが付き、リハーサルの段階でリジェクトになった可能性も大アリだが・・・・
 第1楽章冒頭から既に「ありえなーい!」と叫びたくなるようなスタスタテンポだが、中間部ピーク(8分50秒)前の猛烈な加速は暴挙としか言いようがない。第1稿による初録音という名誉に目が眩み、大して共感していないにもかかわらず録音に臨んだ(←勝手に決めつけるなよ)ため、結局は「安全運転」による凡庸な演奏に終わってしまったインバルを非難した私ゆえ、ノリントンに対しても何か言わなくてはと思うのだが、その言葉が浮かんでこない。というより、ここまで突き抜けてしまっていると却ってサバサバしたというのが本音だ。ベートーヴェンの書き込んだメトロノーム記号通りにテンポを設定したハチャメチャ演奏を聴いて笑い転げたことが何度かあるが、要はそれと同じである。(ブルックナーは具体的な速度指定を書き込んではいなかったはずだが、ノリントンは何に基づいてこの曲のテンポを決めたのだろう?)幸いなことにあまり聞き込んでいない初稿演奏のため、「ブルックナーらしくない」という類の違和感はさほどなかった。むしろ、インバル盤やティントナー盤から感じられた冗長さや小節数の多さが全く気にならないため、スンナリ聴けてしまう。やがて「そんなに捨てたものではない、これはこれでちゃんと意味があるのではないか」と思うようになった。(声高に「意味」を叫んだりせず、不言実行しているのが偉い。)冒頭のスタスタとは無関係に設定されたコーダのテンポにはさすがに文句を付けたい気分であるが、指揮者は最初からそんなことなど全く念頭には置いていなかっただろうから馬耳東風であろう。
 第2楽章でも所々でイラチテンポになるが、何せ基本テンポが速いので「空中浮遊感」に苛立ったりせずに済んだ。(この版最大の聞きどころである「タンホイザー」の引用にジックリ耳を傾けることも不可能だが。)なぜか第3楽章のテンポはまともで(主部と同じテンポを設定したトリオは少々速く感じなくもなかったが)、覚えたのは版による違和感のみ(経験済)。終楽章は冒頭こそ普通のテンポで始まるが、長調に転じるとやはり忙しなくなり(前楽章のトリオを回想しているかのよう)、他盤で聞かれるような長閑さはどこにもない。とにかく、曲想の変わり目ごとのテンポ変更がここまで極端な演奏は他にないだろう。(あるいは3番という限定を外しても。少なくとも私は聴いたことがない。)ゆえに構造は滅茶苦茶だが、聴いていてこれほどワクワク、ハラハラさせられる演奏もそんなに多くないとは認めざるを得ない。例えば7分19〜52秒など出撃シーンの効果音楽に使えそうである。再現部開始(9分11秒〜)を機に、それまで何事もなかったかのようにテンポを戻すが、直後の長調部分ですぐボロを出す、いやサッサとテンポを変えてしまうところなど、いかにもペテン師のようだ。指揮者もさすがにこれでは格好が付かないと考えたのか、14分過ぎで唐突にテンポを落とし、堂々としたコーダで締め括る。このいかがわしさも彼らしくていい。
 ということで、「詐欺師スタイル」とでもと言いたくなるほど奇抜な演奏ではあるが、ブルックナーを素材とした何かのコラージュあるいはパロディ(要は冗談音楽)と割り切ってしまえば大いに楽しんで聴ける。ちっとも褒めてないか。(余談だが、私はクラッシックの編曲ものが結構好きで、最近はジャズ風アレンジのディスクを立て続けに買って聴いている。楽器の改変はよほど酷いものでない限り許容できるし、テンポもリズムもまあ大丈夫だ。だが移調はかなりキツイ。ハ長調の「田園」とかヘ短調の「運命」など脳内で少し鳴らしてみるだけでもうダメだ。だいぶ前のことであるが、飛行機の座席に座ろうとした時に聞こえてきたムード音楽風アレンジによるブラ3アダージョが3度ほど高かったために気分が悪くなり、離陸後もそれは収まらなかった。私は乗り物は全く大丈夫な人間だが、酔ったのは後にも先にもあの時だけである。名盤「フックト・オン・クラシックス」は一部で原調から外れているが、それでも平気なのは数十秒単位でコロコロ曲が変わってしまうからだろう。)何にせよ「邪道の極致」のような当盤は「番外地」に隔離したいくらいであるが、こうなれば「毒を食らわば皿まで」の心境である。「名盤」との声が高いギーレン盤がほとんど入手不可能ということもあるし、4番についてもノリントン流の味付けを施した初稿の演奏が聴きたくなってきた。なお、当盤は古楽器演奏ながら特にピッチが低いとは聞こえない。また、ノン・ビブラートらしき弦の音色に艶がなく、ヘレヴェッヘの7番のような美しさは微塵も感じなかった。とはいえ、おそらくノリントンは笑いの取れる演奏を心懸けていただろうから、それでちっとも構わないのだろう。最後にカップリングのワーグナーだが、不思議なことに少々ぶっきらぼうな音色が曲想とピッタリはまっており、快速テンポながら比較的オーソドックスな解釈だったため文句なしに気に入った。(こちらは回りくどい褒め方をする必要もない。)

おまけ
 「クラシックB級グルメ読本」の「偏屈な即物主義者たち」という項で、B級評論家が「グッドマンやノリントンに至ってはその『未熟さ』だけが取り沙汰されるといった具合なのだ(その未熟さが古楽でございますといわんばかり? オリジナル楽器幼稚園説)。」などとしてノリントンを貶している。ここでもガーディナーやブリュッヘンが本流から外れたとして、「音楽の内部で思考している数少ない『古楽器』人である」などと「虚仮威し野郎」を持ち上げているのが彼らしい。それはどうでもいいが、先の「未熟さ」はどこで誰が取り沙汰していたというのだ? いい加減なことを書くんじゃない!

2006年11月追記
 先日(5日)偶然ラジオをNHK-FMに合わせたらノリントンの声(←絶対に忘れようがない)が聞こえてきた。どうやらNHK音楽祭の生中継らしく、客席に向けてモーツァルトについてのレクチャーを行っていた。通訳を交えながら延々と10分以上しゃべり続けていただろうか。いつしか本文中で触れた「ベートーヴェンの探求」と同様の胡散臭さを感じてしまった。その後に演奏されたのが交響曲第39番、これがまた何ともいかがわしい。ちなみに彼のEMI盤について山田治生が「クラシック名盤・裏名盤ガイド」にて「最もアブノーマルな演奏」として紹介している。何が異常かといえば第1楽章の序奏である。そのあまりに極端に速いテンポに山田は呆気にとられてしまったらしい。実は私も少し前に総合テレビで音楽祭の放送予定を観たのだが、その際にもノリントンはその部分をアダージョというよりはアレグロのごとき猛スピードですっ飛ばしていた。これが抱腹絶倒ものである。(疾走する笑い?)が、予備知識なしだったら間違いなくひっくり返っていたであろう。いくら「モーツァルトの楽譜には速度指定がないからテンポはいろいろな資料を調べた上で指揮者が自分で決めなくてはいけない」とはいってもやりすぎではないか? 主部に入ってからはごくごくフツーだったし、以降も第2楽章がちょっと速いかなと思った程度だったから、あの部分のみ突出して速いテンポを設定した意図がまるで解らない。(逆に終楽章では少々モタモタしているように聞こえた箇所があった。)さらに「犬」通販ではEMIに録音を残した38〜41番まで4曲の全楽章が試聴可能だが、ケッタイな解釈は他に耳に付かなかったから尚更である。やっぱり単に聴き手を驚かせたかったからではないか。ゆえに私には彼の熱弁も詐欺師の前口上、は言い過ぎだとしても「ボクはこれからヘンな演奏をするけど決して怒らないでね」と予め逃げを打っているようにしか聞こえなかった。ゲストの諸石幸生は「マジシャン」と評していたが、私にはやっぱり「ペテン師」の方が相応しく思われる。けれども、あの飄々とした語り口でやられると何故か憎めないのだ。ホンマに食えん男である。(→追記:この演奏会の模様を後日NHK-BSの「クラシック・ロイヤルシート」で観たが、全く飾らないところに好感が持てた。)
 これに対して(度々引き合いに出して恐縮ながら)、ブル9のオマケ(ボーナスCD)として自身のワークショップでの語りを、それもわざわざ英独2カ国語で収録して購買者に押し付けようとした例の御仁はどうだったかなと思い起こしてみれば、いかがわしさではノリントンとどっこいどっこい(少なくとも私にはそう映る)のクセして、いかにも自分のやってるのは大したことなんだぞと言わんばかりの勿体ぶった話し方に改めて不快感がこみ上げてきた。口数によって正統的と権威を付与することにいたくご執心のようだが、「踊りたかったら立って踊ってもいいよん」などと笑いを取っていたノリちゃんとは大違い。あのユーモア精神を少しぐらい見習ったらどうだと言いたくもなる。ちなみに奴のヨーロッパ室内管とのモツ39番の第1楽章序奏は結構速めであるが、エンターテインメントに徹し切れていない。つまり「中途半端野郎」でもあった訳だ。

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