交響曲第5番変ロ長調
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
70/11/02〜06
SUPRAPHON COCO-70415

 当盤収録の5番演奏について、宇野功芳は「名演奏のクラシック」でこう語っていた。

 「第五」はかなり個性的な表現だ。激しいアッチェレランドや、
 トランペットの強奏など、曲よりも指揮者を感じさせる部分が
 多く、こういうことはブルックナー演奏においては禁忌なのだが、
 マタチッチの場合、曲の本質をワシづかみにしているため、
 きれいごとではない素朴な豪快さが宇宙の鳴動となり、壮大な
 讃歌となるのであろう。

最後の2行は何かのジョークだと思うことにしよう。(追記:98年版「名曲名盤300NEW」にて、「新世界」交響曲ではスメターチェク盤を推した宇野は、「きれいごとでない楽器のバランスがドヴォルザークの土の香りを伝え、彫りの深いテンポの動きが郷愁を漂わせる」と書いている。宇野風の音楽評論を勝手に合成してくれる愉快なソフトがネット上で公開されているが、それで作ったような文章である。)さて、この人が9番VSO盤の解説では、第1楽章冒頭の主題提示部について、「ブルックナーを理解していない指揮者は金管を派手に鳴らしすぎ、うるさくしてしまう」のに対し、その箇所で少しも力んでいないマタチッチは奥深い響きを聴かせているために、「さすがといえよう」と褒めている。他にも同著では、(ベートーヴェンと同じく)ブルックナー演奏でも「狂ったようなアッチェレランドをかける」フルトヴェングラーのスタイルを批判しているが、マタチッチが5番で同じようなこと(アッチェレランドやトランペットの強奏)をしても、上記のように「本質」やら「きれいごとではない」を持ち出して救済するのである。冗談じゃない! こんな特例が認められるなら何だって言える。同じような論法でカラヤンを絶賛し、マタチッチをボロカスに言うことだって可能ではないか?(彼の論法を一部ひっくり返すだけでよい。)今になってようやく、同じようなことを既にヨッフムの目次ページに書いていたのを思い出したが(すっかり忘れてた)、こんな「本質」など出した時点でリジェクトである。ホンマ気分悪いわ。
 「クラシック遍歴」にも書くことになろうが、資金力のなかった学生時代はブルックナーの全交響曲を一挙に揃えるというようなことは全く不可能であった(3番以降が揃ったのはマーラー全曲の後)。そこで、FM放送のエアチャックはフルに活用し、下宿近くのレンタル屋から(ほぼ同時期にクラシックを聴き始めた同級生と共同で)借りたCDをせっせとダビングしていた。実はこの5番もそのようにして聴いたものである。その後、ようやく順番が回ってきてマゼール盤を買うことができたのだが、ここでもベーム3番(該当ページ参照)を聴いた時と同様、版の違いが全く気にならなかったのだから呆れる。この場合は改訂版採用の打楽器付加があるのだから尚更だ。当盤を買って改めて聴いた時、「あれっ、こんな演奏だったっけ?」と首を傾げてしまった。全くひどい。
 ネットや書籍などで一部に改訂版を採用している(ただしカットではなく楽器の変更)という情報は手に入れていたが、それでも両端楽章のラストには驚かされた。特に第1楽章である。アップテンポで「タンタンカタンタン」とティンパニが乱打される。後述するように残響が多いため、印象はさらに強烈なものとなる。私が持っているブルックナーの全交響曲の全演奏中でも、響きが破壊的あるいは暴力的であるという点ではトップクラスである。温厚な性格であったという田舎者ブルックナーの音楽とは到底思えない。まだ聴いたことがないが、許光俊があちこちで書いているスヴェトラーノフのいくつかの演奏(レスピーギ「ローマ三部作」など)はこんな感じではないかと想像する。改訂版を使用するなど「やりたい放題」の指揮者といえば、真っ先にクナッパーツブッシュの名が浮かんでくるけれども、彼は使用楽譜こそ(一部の曲で)ハチャメチャだったものの、演奏そのものは比較的まともである。5番の両端楽章コーダも、楽器の付加を除けば(脳内フィルターでカットすれば)均衡は保たれている。クナが活躍していた当時は改訂版もまだそれなりの地位を保っており、彼にしてみれば原典版より優れていると判断したため単にそちらを採用したに過ぎないということなのだ。これに対し、マタチッチが当盤を録音した頃は既にハースとノヴァークによる原典版が出版されており、「改訂版」というだけで際物扱いされかねない状況になりつつあったと思う。にもかかわらず、敢えてそちらを使ったからには相当の決意があったはずである。「シャルクが手を加えたところは、これまで誰がやったよりも派手に鳴らしてやろう。」第1楽章の終わりは見事なエンターテイメントになっている。3楽章ラストのピロピロフルートもクナ盤よりハッキリ鳴っている。まさにサービス精神満点。ふと思ったのだが、ショルティがこの版を使っていたら互角の勝負を挑んでいたに違いない。また、トスカニーニにもこの5番改訂版をレパートリーにして欲しかった。誰にも真似のできないほど狂暴な演奏になっていただろうから・・・・
 第4楽章もすさまじい。ヨッフムを上回る猛烈な勢いでコーダ(18分06秒、テープを繋いだ跡がはっきり聞き取れる)に突入する。なお、クナ盤ではカットに加えてコーダの前後の調性が原典版と異なっており、(59年にしては良質だが)やや不鮮明な録音もあって改訂版のグロテスクさがモロに出た格好である。これに対して、当盤では原典版と同じく主調(変ロ長調)に解決しており、こちらの方がやはり聴きやすい。ここでもティンパニの強烈なリズムや木管の楽しげなピロピロ音が加わって、まるで凱旋行進曲の様相を呈している。そう、私がイメージしたのは「アイーダ」や「タンホイザー」のそれなのだ。(「ピーターと狼」のラストとも近い?)「オーケストレーションのワーグナー化」というシャルクの狙いが見事なまでに実現されている。
 なお、9番チェコ・フィル盤ページに書いたように、この「クレスト1000」シリーズの5番は最新デジタル録音かと錯覚するほどにクリアーな音質である。が、本当は70年アナログ録音だけに少々不自然にも感じる。特に残響が多すぎるように思う。先に書いたレンタル屋の旧盤はおそらく85年の初発盤のはずだが、もっと木目調というか、落ち着いた音だったと記憶している。なにせ大昔なので自信はないが・・・・(後註:7番チェコ・フィル盤ページの追記2を読まれたし。)

追記(結構マジメ)
 「生きていくためのクラシック」中の「岩のブルックナー」で許光俊が書いた当盤の批評は実に見事である。第1楽章の後に(いわゆる美しい音楽ではなくて)ゴツゴツした響きの第2楽章が続くことによって、「全体にぴしっとした統一感があることに気づかされる」とある。マタチッチが全曲を統一したスタイルで演奏している(「ひとつの美意識による徹底した演奏なのだ」)という説明は非常によく理解できる。が、「このような演奏を行うことこそ、演奏家の使命であるはずだ」の「こそ」はどうだろうか? 私は当盤の第2楽章を情緒的で非常に美しいと思った。(79年盤ほどではないが。)第1楽章と対をなしているという印象である。交響曲の各楽章を大きく異なるスタイルで演奏することによって、いわゆる「起承転結」のようなストーリー(ドラマ)を組み立てることも立派な演奏行為だと私は考える。そのために「岩の上に絹を敷いて座る」のもアリではないかと言いたいのである。
 ところで、金子建志の「ブルックナーの交響曲」の120ページには、ハース版と改訂版(およびノヴァーク版)の興味深い比較がある。

  改訂版がワーグナー風のブルックナー像を作りだしてしまう
 危険があるのと同様、原典版はモーツァルト的なブルックナー
 像を生み出し易い。特にハース版がそうだ。
            (中略)
 改訂版の書法がマーラーやR・シュトラウスの世界に属してい
 るのに対し、ハース版はブルックナーを、シューベルトやベー
 トーヴェンのスコアに近づける。多くの部分は更に遡って、モ
 ーツァルトやハイドンと並べても、そう変わりが無いといって
 も良いだろう。
  一方ノヴァークはハースが無視した書き込みを、ほとんど
 “むきになって”採用した。その結果、改訂版のロマン的な演
 奏効果やドラマティックな雄弁術の多くが復活したのである。

マタチッチのブルックナーは、この5番に限らずテンポの揺れが激しく、非常にドラマティックな演奏だと私は思う。そういうスタイルを強調したかったからこそ、指揮者はこの曲の原典版(ハース版とノヴァーク版はほぼ同一)には飽きたらず、両端楽章がドンチャン騒ぎで終わる改訂版を採用したのではないか? (47番の改訂版使用も同じ理由だと思う。が、3番がなにゆえ第2稿なのかは謎のままである。)劇性より統一性に重きを置いて、全曲をストイックなスタイルで貫くためにハース版を採用したティントナー(彼の7番のページ参照)とは正反対である。ま、結局のところ(これを言ったら身も蓋もないが、)感じ方は「人それぞれ」「十人十色」ということである。ただし、指揮者が明らかな意図を持って演奏したのもかかわらず、それとは違う受け取られ方をされているとしたら、やはりどこかに問題があるということになるだろう。録音が悪いか、そうでなければ聴き手がボンクラだということに・・・・

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