交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
75/06/29〜07/01
DENON 28C37-12

 ブックオフで250円だったから買ったものの、初めて再生した時には耳がヘンになったかと思った。理由はすぐ判った。どことなく霞というか靄(←難しい字だ)がかかったような音質のせいである。全体的にハイ上がりのため、特にヴァイオリンの刻みが蚊の大群の立てる羽音のように聞こえて煩わしい。しばらくすると慣れてくるが、時を置いて再生するとやはり違和感に支配されてしまう。この繰り返しだったため聴く気が失せてしまった。演奏内容以前の問題である。そういえば同じ店かつ同じ価格で入手したザンデルリンク&SKDのブラ1旧録音(クラシック全集「新・名曲の世界」シリーズのバラ売り)もベールがかかったような奇妙な音だった。ともにドレスデンのルカ教会での録音だから、あるいはホールや録音機器のせいかもしれない。ただし、それだけではないような気がする。
 上記番号からも判るように当盤は85年12月1日というCD最初期に発売された。やはりデンオンから2800円シリーズ(当時としては破格の廉価盤)で出たノイマン&チェコ・フィルの「運命」&「未完成」を大昔に借りたことがあるが、これもヒスノイズまみれの酷い音質だった。ついでながら、同じ頃に中古屋で買った35CD-4という番号のディスク(テイチク)も貧相な音質が耐えられず、間もなく手放してしまった。ケンペ&ミュンヘン・フィルのブラ1である。言いたいことは、最初期の未熟なマスタリング技術が最大の原因ではないかということである。(聴いたことがないがソニーの38DC-XXXは大丈夫だろうか?)CDが世に出た直後、大多数の評論家が絶賛している中で頑固にもアナログ・ディスク(LP)の方が断然音が良いと主張していたオーディオ評論家が何人かいた。(当時定期購読していた「週刊FM」にエッセイを連載していた故長岡鉄夫もその1人だった。私は彼の文章が好きで、音友社刊行の単行本シリーズ「いい加減にします」まで全部買ってしまった。)彼らがそう叫ばずにはいられなかった理由が今になってよく解る。ただし、その後マスタリング技術は随分と進歩したので、(最新デジタル録音による音源はもちろんだが)今でも「LP>CD」説を唱えている連中の多くは眉唾だと思っている。そろそろディスク評に戻りたいが、この演奏も音質向上が図られているのか確かめてみたいところだ。(ちなみにCDジャーナルのデータベースには「録音もまずまず」とあるから、本当にそうなのかもしれない。)とはいえ、唯一入手が容易と考えられる輸入盤全集を買う気はさすがに起こらない。
 さて、音質の悪さに駄々をこね演奏評を放棄するというのでは某B級評論家と同じ穴の狢になってしまうから、気を取り直して試聴に向かうことにする。とにかくフワフワした音質だが、基本テンポが速いため一応整合性はある。曲想の変わり目の前の極端な加速はしないから解釈に違和感を覚えるようなことはない。上記CDJデータベースに「東ドイツの渋く手固い路線をそのまま地でいったブルックナーである」というコメントを付けたくなった人の気持ちがよく解る。(ただし「これといった大きな特色はないが、とりあえずこの曲を聴きたい、1枚は持っていたいという人にはこのCDで十分用が足りる」には「音質改善」という条件が付く。)
 第1楽章中間部コラール(9分57秒〜)には目が点になってしまった。(耳はどうすれば良いのだろうか?)主題を吹くトランペット、対抗する低弦、両者を支えるヴァイオリン。ここまではヴァント&BPO盤と一緒である。ところがトランペットが最初から抑えられているため、ホルンおよびトロンボーンの絡みまでがハッキリ聞こえるのである。つまりヴァントの「三位一体」を上回っているということだ。(こういうのはどう言い表すべきだろう?「ゴミ一体」では語呂が悪すぎだし。)そんな言葉遊びは措いても、この箇所の美しさはあらゆるディスク中で群を抜いている。コーダの充実した響きも特筆ものである。少し飛ぶが、ハース版に忠実に従い、第3楽章のトリオ冒頭はオーボエが旋律を吹いている。N響アワーで観た「ピーターと狼」の楽器紹介によって私はこの楽器の音色を知ったのだが、時にチャルメラみたいな軽薄な感じがするため正直なところ好きではない。だからクレンペラー盤(2種とも)で同じ箇所を耳にしても印象はサッパリだった。ところが、ここでも当盤は実に幻想的で掛け値なしに魅了されてしまった。ハースが敢えてこういうオーケストレーションを採用した意図が初めて解った(ような気がした。)実に不思議な演奏だが、ここからは「クラシックCD名盤バトル」の「スコットランド」交響曲の項から両著者の言葉を少し引かせてもらって話を進めることにした。
 驚いたことに許光俊は大嫌いなはずのマズアの演奏を推している。(もちろん「あんな指揮者の名前を挙げるとは、私自身信じられない思いがするし、乱心したのかと思われても仕方がないが、何とこれが美しいのである。ケーゲルに意地悪をしたイヤな奴らしいので褒めたくはないのだが……」と断り書きを付けていたが。)その理由について事細かに書かれているが、要は「速めにスルスル作戦」(ちょっと速めのテンポで流すだけ)がメンデルスゾーンでは功を奏し、「これしかないという絶妙さを示している」ということらしい。(ただし「起伏もなければ、細部の深い読みもなく、響きはゴチャつき気味」等々、マズアはあくまで「つまらない音楽家」であるという見解はしっかり述べてある。)それに続く「清楚でサッパリした、だが乾いていていない音色」「軽やかに歌う節回し」「歯切れのよいリズム」には全て肯いてしまった。それを受けて鈴木淳史は「マズアといえば、ドヴォルザークやチャイコフスキーを振ったって、何でもメンデルスゾーンみたいに軽くて脳天気にしてしまう、メンデルスゾーン専用指揮者なわけ」と書いていた。メンデルスゾーンを愛聴している人はきっと腹を立てるだろうが、私はそうではないから別に構わない。が、そうなると当盤も「軽くて脳天気なブルックナー」ということになるのだろう。(ただし、マズアの軽い芸風と適合するのは4番の曲想ゆえという気もする。もし他の曲、特に58番を聴いたら怒り心頭かもしれない。)何れにせよ、当盤は「スコットランド」同様、全くの偶然かもしれないが一部で非常に幸運な結果がもたらされているのは確かだ。
 ここで「一部」と書いたけれども、実は上で触れた箇所を除けば大したことのない演奏である。(中でも第2楽章は「ちっとぐらいは森林内の暗さを表現してはもらえんか?」と言いたくなった。これじゃサバンナだよ。また終楽章ラストは大ペケだ。)ゆえに例のモヤモヤ音質に辟易することになる。次にケースから取り出して聴くのはいつになるだろうか?

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