交響曲第8番ハ短調
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
63/01
Millenium Classics MCD80089

 長らく「名盤」の地位を保ってきたし、いまだにこれを「決定盤」とする評論家もいる。当盤については既に語り尽くされていると思うので、私が何かつけ加えようとしたところで大したものは出てこないだろう。まあ、やれるだけやってみる。
 とにかく、この演奏は説得力という点では抜群である。(善悪、正誤といった次元を超越しているというか、そういった価値観の外にあるような気もする。)それには版と演奏の2つの理由がある。まず前者から。
 改訂版使用であるが、初めて聴いた時には原典版と明らかに違う部分がなかなか聴こえてこなかったため、いつしかそれを忘れてしまっていた。が、第1楽章の終盤、カタストロフが途中(14分20秒過ぎ)から小さくなり、トランペットがいかにも寂しげに吹いている所で、ようやく「何かが違う」と思った。原典版ではトランペットがひとしきり咆哮した後、ブッツリと流れが断ち切られたように聴こえる。この後に続くはずであったハ長調の輝かしいコーダが初稿から第2稿への改訂過程で削除されたが、金子建志の「ブルックナーの交響曲」には、「ともするとその場しのぎの安直なハッピーエンドと印象を与えかねないコーダをカットし、逆に『最後の審判』を思わせるハ短調の頂点の方をティンパニの追加によって盛り上げ、第1楽章を悲劇として貫徹させたのである。それによって全4楽章が明確な起承転結を備えたロマン派的な音のドラマとなったのは言うまでもない。」と解説されている。私もそれには同感だが、ならば悲劇をサドンデス的に終わらせてしまうよりも、改訂版の寂しく消えていくような処理の方が「起承転結」の「起」の締め方としてはもっと良いのではないかとも考えた。姑による執拗ないびりに遭ってシクシク泣いている嫁の姿が目に浮かぶような改訂版の陰湿な表現だと、連続ドラマの「つづく」と同じく「悲劇はまだ終わりませんよ、これからですよ」と言われているように感じられるからである。 (「おしん」を念頭に置いてこれを書いた。) 第2楽章は特筆すべき改訂部分が思い付かないので次の楽章に飛ぶ。とはいえ、原典版の同士討ち(ハース→ノヴァークのアホカット)以上に酷いと感じた所はない。ここでは第2稿で2発入っているシンバルの1発目カットについてグダグダ書いてみよう。
  浅岡弘和は「『第7』の成功で有頂天になったブルックナーの『気の緩み』が随所に見られる」例として、8番初稿アダージョのクライマックスにおけるシンバル乱れ打ち(6発)を挙げていた。「気の緩み」かどうかは知らないが、私もこれはいくら何でもやりすぎではないかと思う。そして、実は第2稿の2発でも私は多すぎると思っているのだ。クライマックスは1つで十分である。(7番のアダージョで2発目が鳴るのを想像してみればよい。寒気がする。)福井と岐阜の県境にある高倉(こうくら)峠(標高950m)を越えるのは結構キツイが、その途中(岐阜県側)には標高800mの「ウソの越峠」というのがある。ようやくここを越えて下りになってホッとしたのも束の間、再び上りになってガッカリ、「騙された!」ということで名付けられたのだと思うが、紛らわしいピークがあると自転車で挑む側は疲れるだけである。音楽に戻ると、クライマックスは分散すればするほど効果が減少するのではないか。「1+1→3」のような相乗効果を表す式はよく使われるが、逆に「1→1/2+1/2」でなく「1→1/3+1/3」になるようなものか。(等式が成立していないので「1+1=3」とは書きたくない。ちなみに、こういうのは何効果と呼んだらいいのだろうか?)かなり脱線したが、アダージョのシンバルはあくまで1発に留め、2発目は終楽章に回すという改訂版のやりかたは、ある意味正しいと私は思っている。
 さて、ここで再度脱線するのだが、ここからは7番アダージョのシンバルについて「それまでのいい気分を一発で台無しにしてしまう」と怒っていたヴァントについてである。金子建志によるインタビュー(「ギュンター・ヴァント、大いに語る」として7番BPO盤や8番ケルン盤のブックレット等に収録)にて、彼はこのように語っている。

 シンバルだけでなく、ティンパニ、トライアングル、更にハープと
 いった楽器は、オルガニストのブルックナーにとっては、全く馴染
 みの薄い響きを持っていたはずです。<7番>で初めて大成功を収
 めた彼は世間に対してオープンになり、作品の反響に歓喜していま
 した。(追加された)シンバルも、その要素の一つです。そして次
 の<8番>になると、もう誰かがシンバルを入れるように提言する
 まで、待ち切れませんでした。そこで彼がしたことは、非常に興味
 深いものがあります。まず(2楽章のトリオに)ハープを入れ、次
 に(3楽章で)シンバルを2回入れた。何と周到なやり方でしょう
 か! オルガン的な管弦楽法から抜け出せなかった彼が、馴染みの
 ない楽器を使い、<7番>での(とってつけたような)唯1回のシ
 ンバルではなく、更に進んだ効果を出すのに成功しているのです。

このように、8番の打楽器(およびハープ)使用についてはかなり肯定的な口調である。けれども、「ザ・ラスト・レコーディング」のブックレット(2種のうちケース収納の方)収録の「音楽に身を捧げて ─ ギュンター・ヴァント・ラスト・インタヴュー」では、だいぶニュアンスが違っているのである。

 第4、第7、そして残念なことに第8も、最初に味わった世俗的な
 成功を失うまいとしている。見事な音楽を書いているんですよ。し
 かし第8交響曲も、必ずしも良いところばかりとは言えない。それ
 がどんなに見事な音楽でも、周りからあれこれ言われて書かれたの
 が分かるのです。友人、助言者、わけ知り顔の者たち。それでブル
 ックナーは深く絶望していた。ほとんど生きるのに疲れていたと言
 ってもいい。そして涙ながらに言ったのです。後の世が自分を理解
 してくれることを期待しよう、と。それが第8交響曲の所々で感じ
 られます。敏感な人間にははっきりと分かる。そういうところが第
 5と第9にはない。世界に、世評というものに、完全に背を向けて
 いる。

これら2つのコメントの間に矛盾はない。が、「はっきりと分かる」とまで言い切ったのであれば、「敏感な人間」には世俗的な部分を削ぎ落とすことも許されるということになるのでは、と私は考えた。(ちなみに「深く絶望していた」以降は実に感動的なコメントであるが、「涙ながらに」には「おまえ見たんかい」と言いたい気分である。あるいは、そういう記録が残っているのだろうか?)先の金子のインタビューでも、7番ノヴァーク版アダージョのクライマックスに追加された打楽器による大音響について、「その音量の中で、果たして音楽を聴き取ることが可能なのか」と疑問を呈していた彼である。ならば、「ヴァント版」を自ら編纂してでも、7番ハース版と同様にアダージョから全ての打楽器を排除したバージョンで演奏してもらいたかったと私は思っているのである。こんな与太話を持ちかけても、十中八九「どうしてそんなことが許されるでしょうか!?」と怒りを込めて拒絶しただろうが。では戻る。
 終楽章はけったいなカットがあって、さすがにこれは拙いと思ったが、先述した後回しシンバルの少し前の第1主題再現部(15〜16分台)で繰り返し出てくるティンパニ付加には血が騒いだ。この楽章はあくまでコーダにピークを持ってくるべきなので、別にクライマックスを設けるのは本来邪道なのだろうが、効果満点であるのは認めざるを得ない。ということで、「改訂版=改竄版=悪」という先入観は、当盤を一度聴いただけで跡形もなく崩れ去った。
 次に演奏について書くと、何よりもテンポをせせこましく変えないのが良い。脱線続きで既にだいぶ長くなったので終楽章だけにするが、例えば6分28秒で急に尻軽になるダメ指揮者と比べたら月とスッポンである。クナはここで金管を抑えているが、これは独自の解釈なのだろうか? ムラヴィンスキーの演奏から時に感じられるような深淵に思わず鳥肌が立った。既に他のページにも書いたが、ラストの「ミ・レ・ド(これ・でも・かあ)」にも度肝を抜かれた。要はこういうケレンが結構好きなんだな、自分は。
 アンサンブルはいい加減、と書いたら怒られるかもしれないが、かなりファジー(←中身は一緒か?)なので、ジックリ聴くと縦の線がキチッと揃っていないのが判る。とはいえ、もちろんプロ集団としての水準は維持している。粗探ししたら気になるというレベルなので鑑賞には問題ない。そして、このファジーなところがミョーに野暮ったさ、田舎臭さを演出している。ただし、わが国では「田舎者ブルックナーの音楽は洗練されすぎてはいけない」という風潮が今でも残っている感があるが、それを作りだしたのは当盤の功罪であると思う。
 という訳で最後に言いたいことであるが、当盤は無類のスケール感を誇るものの、それはあくまでテンポ設定が適切なためである。アンサンブルに難のある演奏を「細部にこだわらない豪快さ」と賞賛し、逆に技術的に完璧な演奏を「スケールが小さい」と貶しているような勘違い批評を時に見かけるけれども、隙のない演奏を心懸けるあまり神経質になるからスケール不足に陥るのであって、アンサンブルの正確さとスケール感は本来トレードオフの関係にはなく、両立は可能であると思う。晩年のヴァントが好例である。

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