交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
64/01/16
LIVING STAGE LS 1003

 どういう訳かクナの3番を5種類も所有することになってしまった。(これで一通り揃っているらしい。)まあ彼が最も得意とした曲の1つであるだけに、数多くの録音が残されているのは当然だが。金子建志によるインタビュー(「ブルックナーの交響曲」54ページ)にて、朝比奈は「<3番>なんて、かなわないですからね(笑)」と答えているように、キャニオンの全集録音以降はレパートリーから外してしまったようである。(というより、その3番録音も「スタジオなら」ということで渋々承知したらしい。)同著94ページでは、1番と並んで3番と6番も「一所懸命やってもありがたくない」曲として括っているが、これはちょっと酷い。ヴァントも似たり寄ったりで、NDRとの選集に含まれる3番(92年盤)の録音の後はほとんどこの曲を指揮しなかったようだし、BPOとのライヴ録音についても(6番の次になるはずだった)3番にはあまり乗り気でなさそうな様子がインタビューから読みとれる。(BPOの依頼に対して「こういうのは、ちょっと向こう見ずというか、ほとんどもう馬鹿げた話という感じがしますがね」とコメントしていた。)ところがクナは最晩年まで3番を演奏し続けたのである。偉い偉い。褒めてつかわす。
 64年4月にVPOを振った4番(私は未聴)がクナのブルックナー演奏の最後とされているので、当盤はラス前に当たる。つまり3番としては「ラスト・レコーディング」である。ただし、最晩年とはいいながらも死去(翌年10月)の21ヶ月ということもあり、ヨレヨレ演奏にはなっていない。(ゆえにヴァントの最後の4番とは事情が違う。とはいえ、基礎がしっかりしていた彼だけに、あのCDでも決してボロボロとは聞こえなかったが・・・・)ちょっと危なっかしいところもあるにはあるが、もともと緻密なアンサンブルをウリにする人ではなかっただけに、衰えによる統率力不足とは感じさせない。 この点で得をしているのは朝比奈と同じか。
 他でも引用させてもらっているS氏のサイトには、この演奏について「クナ好きなら超絶的名演に聞こえる演奏である」とある。私は「クナ好き」の範疇には入らない人間であるせいか、「超絶的」とまでは聞こえなかったが、「名演」と呼ばれる資格は十分にあると思った。両端楽章の名残惜しそうな締め括り方を聴けば、氏の「どこまでも終わらないで欲しい」という感想にも肯ける。私には第1楽章19分47秒で「ドーーーーシラソ#、ラーソーファミレ」の主題が再現してからが特に印象に残った。もはや力強さは感じない、のではなく余計な力が抜けており、これぞ枯淡の境地と感じさせる。切なくも滋味溢れる表現は比類がない。(むしろ「枯淡」が代名詞となっているようなシューリヒトには、最晩年の演奏でもこのような表現は見られなかった。あるいは、ザンデルリンクの引退直前のベルリン放送響との演奏はそうだったのかもしれない。NHK-FMで一度聴いただけで細部は聴き取れなかったが・・・・正規盤で出ないかな、あれ。)そういえば、62年盤のページにはヴァントが指揮した時のNDRの演奏との類似点について少し触れたが、当盤で聴かれるMPOの音は野暮ったく、チェリ時代の洗練された響きとは似ても似つかない。他の曲でもそうなのだが何でだろー? 指揮者の方針によってアンサンブルの緻密さに違いが出るのは当然で、それはよく解るのだが・・・・ なお、音質は62年盤(ただし1〜3楽章)よりも劣り、この時期のモノラル録音としては残念ながら上等とは言えない。
 このページではやたらとヴァントに触れているが、当盤を聴いて感じたのは、もし彼が「ラスト・レコーディング」の4番と同時期にこの曲を振っていたらこんな演奏になったのかもしれない、ということである。少し緩んではいるけれども、その余りある代償として、それまでの演奏からは感じられなかったスケールの大きさを備えた録音が残されたかも。さらに、MPOとの9番が空前絶後の超名演だっただけに(NDRでなく)このオケとの共演が実現していれば・・・・ 虚しくなるだけなのでもう止めよう。結局、クナの3番ページではこんなことばかり言ってきたような気がする。

3番のページ   クナッパーツブッシュのページ