交響曲第5番変ロ長調
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
67/09/11〜15
EMI TOCE-3448

 今月(2004年11月)に並行してページ作成を行っているシューリヒトの項では、5番は8番ほどの演奏時間をかける必要がない、にもかかわらず8番より5番の方が長くなっているなどと書いた。同様にクレンペラーも8番57年盤ではわずか71分台だったが、10年後の5番録音ではほとんど80分近い演奏を繰り広げている。もっとも、彼の場合は60年代後半からテンポがドンドン遅くなっており、この5番はその過程の真っ最中に録音されたという特殊事情を考えなければいけないだろう。(72年録音の8番NPO盤では、終楽章に大幅カットを施しているにもかかわらず、トータル80分を優に超えている。)
 第1楽章は平均的なテンポで始まるが、2分少し前から別の遅いテンポになり、その堂々とした歩みのまま2分27秒のファンファーレに到達する。何せ曲が曲だけに当然なのかもしれないが、これほどの巨大さはそれまでのクレンペラーにはなかったものだ。(あるいは若い頃のものが残っていないだけかもしれないが、)クレンペラー5番の録音はこれが最初である。もしかすると、レパートリーに採り入れたのも遅かったのかもしれない。このあたりも、自信が持てるようになるまで演奏を控えていたというヴァントとの類似性を感じてしまうのである。あるいはクレンペラーもようやくにしてこの曲に開眼できたので、遂に録音に踏み切ったということだろうか? そう思わせるだけの完成度の高い演奏がここにある。(まだ若い内からこの曲を演奏&録音してしまうような指揮者には「ダメ指揮者」の烙印を押してしまっても構わないかも、といったらさすがに言い過ぎか。ま、そうだろうが・・・・)3分過ぎからはもとのテンポに戻る。この後もブロックごとにテンポを変えることはあっても、ブロック内は完全にインテンポである。14分45秒からもインテンポで極めてスケールの大きいクライマックスを描き出す。ただし、それ以降(15分16秒〜)は少しテンポを落とすのである。このやり方はヴァントとは違う。直前(といっても3年前だが)に録音された6番でも同じやり方を採用していたが、テンポ差によるスケール感の創出が絶妙である。今気が付いたが、この人は音量差はあまり使っていないし、楽器の重ね方に特別な工夫をしているということも思い当たらない。だから全体にモノトーン(色彩に喩えたら地味)であるが、この曲ではそれが見事にはまっていると思う。第2楽章も冒頭は予想外にアッサリしたテンポであるが、ここでもしんみりと聴かせるところは聴かせてくれ、泣かせてくれる。スケルツォでもブロック間をテンポで対比させるが走らない。いぶし銀サウンドは中間楽章でも相性抜群だ。
 終楽章も途中まではこれまで書いてきたことと全く変わらないので、いちいち繰り返さない、というより書くことがない。10分28秒以降、主題が変奏を繰り返しながらだんだんと凄味を増してくるところが当盤の白眉である。チェリビダッケと同じく遅めのインテンポで巨大スケールの演奏を実現しているのだが、彼と違って神秘性のようなものはない。あくまで現実主義者の醒めた目がある。コーダのテンポもこの楽章の基本テンポと同じで特に遅くしたりしていない。その必要がないからである。ただし、最後の一音の鳴り方があまりもアッサリとし過ぎで、私にはもうちょっと余韻が欲しいと思われたのだが、やはり指揮者には「その必要なし」だったのだろうか? 何といっても全曲を通して緊張感が持続し、最後まで緩んでいないのがありがたい。9番もこの時期に録音されていれば、と思うが後の祭りである。
 またしても今頃気が付いたのだが、フィルハーモニア管の音はBPOはもちろんだが、大陸のオケと比べたらはるかに地味である。それが5番や6番とは特に相性が良いのだと思う。(47番ではもう一つ。)なお、当盤も6番同様「歪みが2088倍凄まじい」マスタリング盤である。(それしか出ていなかったのだから仕方がない。)ガヤガヤ感タップリで明瞭さに乏しい音質だが、この曲では致命的マイナスにはなっていない。

おまけ
 宇野功芳は「名演奏のクラシック」にて、「クレンペラーの音楽は本来二流の人が不屈の意志の力で達成した努力の結果」であるとしてクレンペラーを「大器晩成の人」に分類し、「クナッパーツブッシュの天才」とは一線を画している。一方、浅岡弘和は(シューリヒトと対比して)「若い頃のクナははっきり言って単なる『大根』であろう」としてクナも大器晩成に入れていた。私は彼らの若い頃の演奏を聴いていないので、「天才」なのか「大器晩成型」なのかについてはコメントできない。(安易に「巨匠」とか「天才」などを使いたくないということもある。)少なくともクナについては「とてもユニークなエンターテイナー」と思っている。(だから宇野が好むのは当然である。)ここはクナのページではないのでクレンペラーに戻ると、宇野によると晩年(70代に入ってから)でも「必ずしも全部がよいわけではない」とのことである。特にベートーヴェンは(モーツァルトとともに)「よいもののほうがすくない」と書いているが、それでもフィルハーモニア管との全集録音の5番と7番を挙げていたし、「名曲名盤300NEW」ではそれらとともに4番のバイエルン放送響盤にただ一人点を入れていた。一方、またしても浅岡だが、彼は「クレンペラーの未発見録音続出により巨匠界の4番打者の座を奪われかけているフルトヴェングラー」として、クレンペラーをフルトヴェングラーと同等以上に高く評価している。(ベト7に関してはクレンペラーの60年盤にはっきり軍配を挙げている。)「クラシックの名曲・名盤」の企画「名指揮者ベスト・ナイン」では、フルヴェン4番、クレ6番だったが、宇野&浅岡対談で新ラインナップを組んで欲しいものだ。
 さて、宇野の晩年のクレンペラー評に戻ると、彼は「テンポは遅くなったが概して鈍重であり、ひびきは重厚だが大味で、まるでウドの大木を思わせる。ワーグナー、ブルックナー、ブラームスなどがよい例で、ほめる人もいるが、僕はとらない」 ということだ。さらに「『それらしい』というだけで、鋭く突っ込んだところが皆無だからである」とまで書いていた。「皆無」と言い切ってしまったところが良くも悪くも宇野らしい。そのお陰で熱烈な支持者を集める(同時に敵を作る)ことになったのだが、少なくともこの5番に関する限り、「皆無」はいくら何でも言いすぎだと思う。(宇野はとらなくても僕はとる。)とはいえ、クレンペラーのブルックナーは、彼以外の評論家からもさほど高い評価を受けているようには見えない。「名曲名盤300」の92年版では、唯一この5番に竹内貴久雄が「この曲の厳しさを壮大なスケールで描いた晩年の名演。その乾いた響きが独特だ。」として2点入れているだけである。それ以前でも83年に9番が3位にランクされていただけであり、次の「名曲名盤300NEW」ではついに獲得ポイント0となっている。

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