交響曲第8番ハ短調
ルドルフ・ケンペ指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
71/11/12〜13
Somm Recordings SOMMCD 016-2

 HMV通販サイトの紹介ページには「LP時代に大きな話題を呼びながらも、諸般の事情により、なかなかCD化されない演奏というものが世の中には結構たくさんあるものです」とある。最近某掲示板のブル8スレで知ったが、LP発売時に「ところが今度のケンペの新盤は、この2種の名盤に初めて匹敵し得る名演奏であった。もちろん彼らを凌駕しているとはいえず、本命の二者に次ぐ唯一のレコードということであるが少なくともぼく自身はケンペが無くては淋しい気がする。」と書いた評論家もいたらしい。(ちなみに、その投稿者が「御大」と呼んでいた評論家が誰なのかはハッキリしないが、一人称が「ぼく」なので多分例の人だろう。私としては秀和先生にこそ相応しい気がするが。が、そうなると「本命の二者」はクナとシューリヒトだろうか?)ついでながら、件の宣伝文では「諸般の事情」その他に関して延々と述べられている。なんでも2チャンネル収録されたオリジナルテープの音を4チャンネル仕様に変換して発売するという荒技のため、「通常の2チャンネル装置で聴く人間にとっては恐怖(?)といって良い残響の海の中から、何とか音楽情報を聴きとっていた」ということだ。もちろん当盤では(エフェクト・マスターは使用せず、きちんとした2チャンネルのオリジナル・テープからCD化をおこなっているため)そのようなことはなく、こもりがちの音質ながらステレオ録音としての最低レベルはクリアしている。ところが、目次ページに記した経緯によって当盤を入手した当初、私は演奏自体には全く満足できなかった。
 改めて聴いても第1楽章立ち上がりからパッとしない。1分41秒など全く迫力が足りない。終盤のカタストロフ(14分14秒〜)も同様にひ弱な感じだし、中間部に至ってはテンポを落としていることが災いし、中身スカスカ感さえ漂ってしまう。ゆえに、先述のブル8スレにて「一回聴いて島流し」「ありゃ並でしょ オケは非力だし」とコメントした投稿者の気持ちも理解できる。再び「犬」サイトの「ケンペの芸風が、派手志向とは無縁の、キリリと締まった無駄の無い語りくちの中に多彩なニュアンスを込めてゆくものである」が事実としても、この大曲がそれだけではアカンやろと言いたくもなる。第2楽章も味も素っ気もない演奏で、「冴えんなあ」という印象のままディスク1を聴き終わる。パント合戦に終始し唯一の得点がフィールドゴールというアメフト試合のハーフタイムのような感じである。(サッカーでは0対0で終わっても内容次第で、つまり見応えのある攻防が展開されていれば不満を抱いたりしないが・・・・)
 ところが第3楽章には驚いた。何という濃厚な演奏。1分57秒〜や同じ音型が調を変えて再登場する3分56秒〜は作曲者が、あるいは指揮者が溜息を吐いているように聞こえ、私も思わず溜息が出た。18分46秒〜のハース版固有配列も同じ。(この版を選んだのはエライ!)このオケの渋い響きは曲調との相性がよほど良いのだろう。盛り上がるところは長調でも哀しく聞こえるのだから。静謐さを湛えたソロ部分も素晴らしい。そしてクライマックス(21分44秒〜)は圧倒的で、その後の5分ほどは完全に精根尽きたかのようである。そうなると、不甲斐ないと聞こえていた前半楽章にしても敢えて抑えていたということであるから、やり方としては全く正しい。(惜しむらくは11分19秒以降のように早足になるところ。それさえなければセルのスタジオ盤のようにトラックタイム29分ほどの演奏になっていただろうし、あの「突然変異盤」と同等以上の評価を与えることもできた。)続く終楽章は立ち上がりから全開である。冒頭の歩みから殺気が漂っているし、ティンパニが暴発するのもお構いなし。加減速もかなり大胆に行っており、この楽章だけ聴けばイケイケ型の演奏と錯覚してしまいそうであるが、これも曲全体を視野に入れ、起承転結の結として位置づけていたからである。つまり前半楽章はあくまで布石に徹し、アダージョは中盤のねじり合い、そして終楽章はヨセ(地の確保)といった明確な方針で録音に臨んだ指揮者の作戦勝ちといえる。(とはいえ、私は囲碁については「ザル碁」もいいところの超初心者である。土壇場まで石の死活が判らない=将棋で三手詰が解らないのと同じレベルであるから、攻め合いになると決まって大石をボロボロ取られてしまう。オセロ以上に悲惨な負け方の連続に嫌気がさしたため、もう何年も石は握っていない。だから、この喩えは明後日の方を向いているような気もする。)

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