交響曲第9番ニ短調
ヘルベルト・ケーゲル 指揮ライプツィヒ放送交響楽団
69/04/01
ODE ODCL-1021(セット)

 47番は60年代初めと71年という約10年を隔てた同曲異演奏の比較であったが、この9番は69年と75年だから事情が少し違う。また、9番は原典版が基本的には1つだけだから、異稿を使い分けをしたりすることはできない。(いくら何でもあのグロテスクな改訂版を使う気にはならないだろう。)とはいえ、演奏時間を見るとトータルで5分以上違う。この時間差だけからも、受ける印象が相当に異なってくることは十分予想できる。まずは69年録音の当盤から聴いてみた。
 このボックスに収録されているディスクは、ステレオ録音であってもかなり音質が異なる。(機器やエンジニアの違いだろうか? データが記載されていないので判らない。)当盤の響きは開放的ではあるが、70年代中頃以降の録音のような明るくて軽い音ではない。まず耳に付くのは金切り声のような鋭い金管。ソヴィエトの録音(ムラヴィンやロジェヴェン)と似ている。また、マイクが近くに立てられているためか楽器の音がやたらと生々しい。後の録音からはもうそういった特徴は聴かれない。とはいえ、録音が47番新盤と2年しか離れていないだけに、演奏自体は(60年代初頭の「爆演」型ではなく、)それらに近い均整の取れたスタイルをとっているだろうと私は予想していた。
 実際、第1楽章冒頭はほぼインテンポで進む。「インフレーション」で走り出したりしない。「ビッグバン」直前に間が入るが、ヨッフムほどではなくギリギリ許容範囲である。やはり基本テンポ重視の好演、と思い始めていたところで裏切られた。14分頃からまさかの加速。そして15分からも行進曲調でスタスタ進んでしまう。けれども、クエスチョンマークの付く解釈はここだけ。あるいは過渡期(芸風が完成する直前)といえるのかもしれない。ご存知のように、この楽章終盤(当盤では23分過ぎから)は金管が大活躍するが、先述した鋭い音は悲痛な叫びのようで効果満点である。コーダも私の理想(インテンポで「ダダーン」をちゃんと鳴らす)通りに演奏してくれており大満足。第2楽章のスケルツォもインテンポで迫力十分。トリオに入る直前でも金管の独壇場となる。ただし、強奏すると粗さが出てしまうせいか、時に調子っぱずれに聞こえてしまうのは惜しい。それはここに限らない。
 第3楽章冒頭は非常にもの悲しい雰囲気で始まる。今更ながら気が付いたのだが、このオーケストラの響きは決して洗練されていない。正直言って野暮ったい演奏である。当盤も含め、ライブ録音は一発録りなのかもしれないが、金管の吹き損じも結構聞かれる。(70年代のような精度の高い演奏ではない。)けれども、先述した悲痛な金管の音色とともに、それがこの楽章ではプラスに作用しているのだ。滅びゆくものを惜しみつつ粛々と歩んでいるかのようである。「終末」や「滅亡」をここまで感じさせる演奏は多くないと思う。

9番のページ   ケーゲルのページ