交響曲第6番イ長調
ヘルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団
72/12/12
ODE ODCL-1017(セット)

 3番以降では最もスケールの小さい曲で、どちらかといえば激しさや厳しさよりは優しさとか暖かさがウリの音楽。ブルックナーの他の交響曲が苦手な人にも勧められる。私が今ザッと思い付いた6番に対する印象を文字にしたらこんなところだろうか。(ネット掲示板で見る限り、実際に「6番だけは聴ける」という愛好家も決して少なくないようである。)ところが、ケーゲルはそんな曲でも絶対に手を抜かない。厳しい。身内であっても裏切り者は容赦なく密告するような、などと言ったら怒られるか?
 5番が約70分という快速テンポを採用した指揮者だけに、トータル約55分という標準的な演奏時間は少々意外である。(ちなみにレーグナーは6番でも52分で相当速い。)第1楽章を聴いてみると基本テンポはやはり速いが、この曲特有のしっとりした部分で腰を落としてみっちりとやるのである。ただし、そういう所でも微笑まないのが彼らしい。ブルックナーの全楽章中で最も優美であると評されることもある第2楽章にしても、何やらガラス細工のような美しさである。いや、氷細工の方が近いか。美はあっても優はない。オーボエの音色は本当にヒンヤリしている。第3楽章は5番のそれと同じ印象である。リズムがとてもきっちりしている(特にトリオのピッチカート)ので、ついつい厳しさを感じてしまうのだろう。
 それまで快速テンポで終始一貫していただけに、ほぼ15分かける終楽章の冒頭は実に堂々としたものに聞こえる。そして5番と同じく、この曲でも終楽章だけは感情が表に出たような演奏になるのである。4分45秒からの行進曲の所は何やら楽しげである。一方、遅いところは優しい。暖かい。「鬼の目にも涙」といえようか。そして、以前の楽章では激しい部分にも抑制を効かせていたが、ここではあまりそれが感じられない。火傷しそうな熱々状態で曲を終えるのはいうまでもない。
 5番6番と聴いてきて、この指揮者は普段は沈着冷静なのだがひとたび興奮すると「自分が興奮している」ということに興奮してしまうという、つまり正のフィードバックが働くと歯止めが利かなくなるタイプではないかと思った。(椎名誠が友人、たしか沢野ひとしを評する際に、そのように書いていたと記憶している。)まさに暴君、独裁者の資格十分である。
 と、ここまで書いて、やはり自分がこれまでケーゲルについて書かれた数々の文章にかなり影響され、先入観を植え付けられてしまっていることに今更ながら気が付く。他人の書いたものをなぞっているだけでは何にもならない。(ので、残りの479番のディスク評ではそうならないよう心懸けるつもりである。)「冷酷」「非情」といった色眼鏡を外して聴けば、最初を抑え気味にして最後に圧倒的なラストを用意するというストーリーの組み立てに優れた指揮者であることが判るはずである。

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