交響曲第8番ハ短調
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団
82/08
Teldec WPCS-21016

 ここでも「名曲名盤300」を引き合いに出すが、3番と同じく87年ランキングでは1位に輝いたものの、93年版と98年版では選者から全く顧みられることなく圏外に去ってしまった。
 当盤も3番と同じく、トラックタイムに初稿と後の改訂稿との小節数の比を欠けて「換算時間」を出してみる。どっちにしようか迷ったが、録音数の多いノヴァーク第2稿を用いることにした。

 第1楽章:14:01 × 417/453 = 12:54
 第2楽章:13:25 × 288/316 = 12:14
 第3楽章:26:46 × 291/329 = 23:41
 第4楽章:21:08 × 709/771 = 19:26
 トータルタイム:68分14秒

 ケース裏のトータルタイムは75分37秒。これは通常の第2稿あるいは改訂版による演奏と変わらない。小節数がノヴァーク2稿の9.6%増しであるにもかかわらず・・・・(この点に関してどこかで批判されていたのを思い出したので検索してみたところ、あるブルックナー専門サイトにて「大阪弁で『イラち』と評したくなる落ち着きのないテンポが気になる」というコメントが載っていた。)案の定というか危惧した通りというか、どの楽章もセカセカテンポである。換算時間68分台は(私には常軌を逸しているとしか思えない)シューリヒト&VPO盤などを上回っており、思わず「ありえなーい」と叫びたくなってしまう。第1楽章11分43秒からの(2稿以降ではクライマックスとなる)悲劇的な部分があっけなく進行するのは呆れてしまった。これではその後に続く輝かしいコーダが引き立たない。2楽章のスケルツォは悪くないが、トリオは「アホか」と言いたくなってしまった。換算時間から見ると、後半2楽章はタイム的にあり得ぬものではない。部分的には気に入らない箇所があるものの、聴けないことはない。ただし3楽章後半に6発(3×2)鳴るシンバルのうち、3連発の最初以外はコソコソと申し訳程度に叩いている(←鈴木淳史のパクリ)のか、ハッキリ聞こえないのが気に食わない。
 ということで、8番初稿には他にはない優れた点があり、だからこそティントナーはわざわざそれを選んで録音したのだが、残念ながら当盤の演奏からはそれがほとんど感じられなかった。(ゆえに初稿と改訂稿との比較についてはティントナー盤のページで述べたいと思う。)3番初稿録音と同様、前例がなかったので無理もないのかもしれないが、やはりテンポが速すぎたのが敗因である。(あるクラシック音楽の総合サイトで、ティントナー盤について「インバル盤で第1稿はこりごりという人にもおすすめできる」という作成者のコメントが出ており、笑いつつも肯いてしまった。また、別の8番専門ページでは「あまりにドライなのにがっかり」とある。やはりティントナー盤ぐらいジックリ時間をかけて演奏してくれないと、初稿と改訂稿との違いを確認して愉しもうという気は起こらない。)冒頭で述べた人気凋落に話を戻すと、もはや「資料的価値」しかなくなった当盤は、既にその役割を終えて「過去のもの」となりつつあるのだろうか?(ひどい)

おまけ(やっぱり書かずにはいられなかった)
 インバルのブルックナー国内廉価盤のブックレットには、全集版解説から部分省略転載したという「インバルの演奏について」が共通して使われている。その中から、8番初稿について触れた部分を以下に示す。

 そして≪第8番≫では何故ブルックナーが改訂せざるを得なか
 ったのかと思わずにいられない初稿の完成度の高さを示す秀演
 をしているのだ。

演奏の出来不出来にかかわらず8番初稿の完成度は高い。(作曲時期からすれば当然だが、3番初稿より格段に上である。)ただ、冗長になるのを恐れるあまり速めのテンポによる安全運転に終始したため、その良さを生かし切れなかったインバルの演奏、その素晴らしさが聴き手に十分すぎるほど伝わってくるティントナーの演奏という歴然とした違いがあるのみである。
 ところで、上の文はやたらと読みづらい、というより明らかに日本語としてはヘンではないだろうか? そう思って改めて解説を読んでみたら出てくる出てくる。この際だから、3番と4番に関する記述も転載することにした。

 ≪第3番≫では決定稿よりも総計で412小節も長い初稿における
 冗長さを感じさせるどころか、改訂によって無駄がはぶかれ、
 洗練されたと思われた形式的バランスとは逆に、初稿段階に
 含まれ、後に削除される多くの楽句ひとつずつに音楽の流れの
 中における有機的意味づけや関連性を引き出して、それらの
 羅列的多主題間のコントラストに如何にもブルックナー的性格を
 与えるのに成功しているのである。

「羅列的多主題間」という強引な造語(合成語)や「如何にも」の用法(註)、意味不明の「有機的意味づけ」「ブルックナー的性格」など、まさに突っ込みどころ満載である。が、それ以前の問題。何なんだ、この冗長で構成もメチャクチャな文章は? 「改訂によって無駄を省き、洗練させる」ことが必要なのは他でもない、この解説である。どうして廉価盤再発時に手を入れなかったのか? 責められるのは執筆者だけではない!(激怒)
(註:最初は「如何にも」が「与える」「成功している」のどちらにかかるのか、と考え込んだのだが、しばらくして直後の「ブルックナー的性格」にかかっていると気付いた。それだったら「ブルックナー的な性格」としなければならないだろうに・・・・)

 ≪第4番≫でも最終稿とは全く異なるスケルツォ楽章とフィナーレ
 楽章から洗練され過ぎてはいないが故の、言い換えるならばラフ・
 スケッチが完成された絵画よりもしばしば力強い表現力をもってい
 るのに似た素晴らしさを引き出している。

念のために言っておくが、句読点の位置もそっくりそのままで載せている。もはや呆れ果てて文句を付ける気力も失われつつある。頭に浮かんだ単語をそのまま文字にして、そのまま繋げてしまったらこんな文章になる。口の悪い人間なら「日本語が不自由」ぐらいの嫌味は言うだろう。(もし学生が私のところにこんな文章を持ってきたら、ひとこと「書き直し」とだけ言って突っ返すと思う。)執筆者は「ベートーヴェン ― カラー版作曲家の生涯」(新潮文庫)を執筆した平野昭ということだが、そんなことが本当にありうるのだろうか? おそらく、これは出来の悪い学生が書いたのであろう。そう信じたい。(追記:マタチッチのディスク評執筆中に平野の手になる解説を見つけたが、ここに挙げたような酷い文章とは似ても似つかぬものであった。これも彼の名誉のために言っておかなければならないが、そして当然といえばあまりに当然だが、上記新潮文庫にも赤点学生レベルの文章はない。)

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