交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団
82/09
Teldec WPCS-21014

 当盤の演奏はNHK-FM日曜夜に放送されていた「クラシック・リクエスト」で初めて聴いた。大友直人の時代だった。聴いていて「ヘンなの」と思って何度か笑ってしまったことを憶えている。そういえば、Kさんにはこんなことを書いていた(99/02/15)。

> 僕はインバル指揮による3番と4番の初稿の演奏を聴いたことがあり、
> 長ったらしく、こなれていないと思う箇所も多くありましたが、どう
> してどうして捨てたもんじゃないとも思いました。比率として、
> 初稿:修正稿=1:3くらいなら聴いてもいいように思います。

上の「比率」は「聴く回数」のことである。が、上の発言は全面撤回する。特に4番初稿はこのようなページを作成するという目的でもない限り、なるべく聴くのは避けたいと今では思っている。 当盤は3番のように「名曲名盤300」にて上位にランクされるということはなかった。93年版では小石忠男が、98年版では根岸一美が点を入れているだけである。これは同じ初稿でも3番や8番と比べて完成度がかなり低いことに起因していると私は考えている。
 当盤を購入したのは本腰を入れてブルックナーのディスクを集めるようになった2000年のことだと思うが、ジックリ聴いてみて「こんなに酷い曲だったんだ!」と仰天した。最初はそうでもないが、途中から感じる「ギクシャク感」「脱力感」は尋常ではない。よく知っているテーマでも音階進行や調、あるいは楽器の重なり方が違っているところでガクッとくる。階段の上りで空足を踏んだ感じとどことなく似ている気がする。「ギクシャク」といえば、漫画「じゃりん子チエ」27巻から登場する鍼灸&マッサージ師の「周センセ」(花井拳骨の大学時代からの友人)にあちこちの関節をはずされてカクカク音を立てながら動き回るテツの滑稽な姿を思い出してしまった。第1楽章では2分07秒や3分33秒の終わり方などちょっと耐え難い。この楽章のエンディングがアッサリしているのはまあ仕方ないにしても。
 第2楽章はそんなに思い入れがないせいか前楽章ほど酷くは感じない。が、退屈な音楽を聴いているうちに突然音が大きくなってビックリさせられてしまう。何度聴いても慣れない。要は16分40秒頃から1分ほどハ長調になって盛り上がる部分の後がいけないのだ。この楽章の終わり方が第2稿のようにキチッとしていないこと、続く3楽章の始まりが(ここでもホルンの咆哮で始まる第2稿のように)明解でないこと、その両方が災いして第3楽章の40秒頃から全く意味不明としか思えないような盛り上がり方をするためである。さて、この第1稿スケルツォを浅岡弘和は「ブルックナーのスケルツォ中、最も出来が悪い」と書いているが、私も同感である。というより、前楽章との繋がりまで考慮に入れれば、「全ての楽章中で最も出来が悪い」と言っても差し支えないのではなかろうか? もっとも、この不出来なスケルツォの方が2稿のそれよりもブルックナーらしさでは上回っているように思う。いわゆる「狩りのスケルツォ」はあまりにも人間くさく、「ブルックナーのスケルツォ中、最もブルックナーらしくない(次点は8番)」と私は考えている。
 そしてフィナーレであるが、あの神秘的なコーダがないことについては何も言わない。初稿に対して「ないものねだり」をしても仕方がないから。さて、この楽章冒頭の盛り上がりがトランペットの「ソードードソー」の繰り返しで一区切り着いてからの進行にはぶったまげること必定である。3分04秒からの弦のリズムが「ターンタタンタン」というお馴染みのものではなく、「タッタラッターッタッター」というように、やたらと音符が多く聞こえるのだ。この辺は金子建志の「ブルックナーの交響曲」に詳しいが、この楽章の初稿では何と5連符が多用されていたのだ。(それが第2稿では2+3あるいは3+2という「ブルックナー・リズム」に全て書き直されてしまったということである。ちょっと惜しい気もする。)3分45秒には「ミーソソッソファソラ♭ソファソ」のよく知った音型が来るが「ファソラ♭ソファソ」は5連符、そして4分06〜24秒までは「もう勘弁して!」と言いたくなるほど「タッタラッターッタッター」が連発される。第1稿と第2稿を詳細に比較しているサイトによると、ここでは「8ビートにのった5連符のパターンを14小節間ひたすら弾き続けるという過酷な試練に立ち向かわなければなりません」とあった。すごい。金子によると「頭で考えたアイデアを、合奏としての合わせ易さを考慮せずにただそのまま楽譜に書いたとしか思えない」とのことだが、それをそのまま音にした指揮者とオーケストラに対してここでは拍手を送りたい。ちなみに、先述したサイトによるとエンディングはさらに凄まじいことになっており、「スティーブ・ライヒ顔負けの壮大なミニマル・ミュージック(?)の世界が体験できるはず」ということだが、ここまでくると楽譜が読めない私には聴いても解らない。何はともあれ、もし前衛作曲家ブルックナーのこの作品が「演奏不可能」として突き返されることなくすんなり演奏されたら、彼はその後一体どこまで自分の道を突き進んでいったのだろうか? そして、そうなっておれば「ブルヲタ」は現在存在しているよりもはるかに少数であり、その分アクの強い人間によって占められていたであろうことは間違いない。(私は「ブルヲタ」になっただろうか、ならなかっただろうか?)
 ちょっと脱線が過ぎたので戻ると、浅岡弘和の「まともなブルックナー指揮者なら決して初稿は選ぶまい」という言葉に私は同意する。つまりインバルは「まともな指揮者」とは呼べないということである。(終楽章に関しては「珍しいものを聴かせてもらった」という気持ちが強いが・・・・)指揮者がこの4番を、ティントナーのように「最初の版の方が優れているから」という理由で採用したとは到底思えない。他にインバルが初稿を用いた3&8番にしても、あのセカセカした演奏からは「俺はこの初稿が好きで好きでたまらんのだ」という愛着のようなものはほとんど感じられない。まさか「世界初」という称号を得るためだけに録音したとは考えたくないのだが・・・・・とはいえ、これら初稿録音の「資料的価値」によって後の数々の名盤が生まれたことは確かであり、その点でインバルの功績は不滅である。(いちおうフォローしておく。)
 なお、私が多用している「資料的価値」は「クラシック名盤&裏名盤リスト」でこの曲を担当した吉田真による「資料としての意味合いが大きかったインバル盤」という評価の半ばパクリである。彼は「この版への積極的な思い入れを感じさせる、最も『ロマンティック』ではない第4」としてギーレン盤を挙げていた。鈴木淳史も「クラシックB級グルメ読本」にて、「インバルと比較すると、ギーレンの曲に対する親密度の高さは歴然」と述べている。さらに、ブルックナー総合サイトにはインバル盤とギーレン盤とを対比させた極めて興味深い投稿が載っている。投稿者はギーレン盤を聴いて、4番初稿は「失敗作」「偉大なる失敗作」どころか、「ある意味において『ブルックナーの最高傑作』」であると確信したのだそうだ。ここまで評価が高いギーレン盤を聴かないわけにはいかないと思い、以前から入手を狙っているのであるが、稀少品らしくネットオークションでの高騰も著しい。ヘンスラーによる再発を期待するばかりである。

2004年9月追記
 3番と8番の初稿初録音についてはインバルで間違いなかったのだが、ブルックナー総合サイトを閲覧していて、この4番初稿についてはクルト・ヴェス&ミュンヘン・フィル盤(75年)が世界初録音だと判った。(ヴェスって誰や?)上記の吉田真が「資料としての意味合い・・・・」などと書いていたからつい勘違いしてしまったではないか。金子建志も「ブルックナーの交響曲」中でヴェス盤(未CD化らしい)について何も触れていないのはあんまりだ! と責任転嫁しておく。(←ひどい)

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