交響曲第5番変ロ長調
ベルナルト・ハイティンク指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
88/03〜05
PHILIPS PHCP-20229

 ブルックナーの総合サイトには、この演奏に対して「無印」として最悪の評価を付けた投稿があった。 その投稿者は宇野功芳による例の「愚鈍の極み、凡庸の塊」という言葉も当を得ているとまで書いていた。残念ながら私の感想もそれと大差ないものである。この5番では曲が曲だけにもうちょっと暴れて欲しかったというのが正直なところである。ヨッフムくらいで丁度良い。他の曲なら「ムチャムチャするんじゃない!」と怒りたくなるようなフルトヴェングラーの演奏でも、それなりに聴きどころはあるのである。が、当盤にはそれがない。かといって、「ここがダメ」と指摘できるような欠点も思い浮かばない。(その点で私の印象は件の投稿者とは違う。)
 私のようなヘボがしばしば「一手バッタリ」とでもいうような致命的悪手を指して負けてしまうのとは異なり、プロ同士の将棋対局では「疑問手が一つもない」「敗因らしい手が一つもない」と評される(プロの目でも「不思議な一局」と評されるような)ものも時に現れる。その場合には「構想自体に問題があった」という訳のわからない結論で感想戦が締めくくられることもあるが、もしかしたら当盤も「ウィーン・フィルと録音したこと自体が間違い」なのかもしれないとふと思った。ゆえに将棋の話を持ち出したのだが、喩えると「7六歩ではなく、2六歩と突いたのが敗因」(←暴言)みたいな感じである。
 要は、指揮者とオケの共同作業によって生まれた音楽があまりに自然すぎて、それが8番だったら良いが5番ではちと拙いということになるのだろうか。(指揮者はもちろん、オケも悪くないことはクレンペラーやシューリヒトとの演奏を聴けばすぐ判る。)私はどうしても物足りなさを感じてしまうのである。「中庸の美」に対し、時には「美なんか醜なんかどっちなんや? ハッキリせい!」と苛ついてしまうのが人間である。トゥッティでの音の立ち上がりが鈍い、金管やティンパニが鳴ってほしいところで鳴らない等々、挙げていけばキリがないと思うので止めておく。初発盤(当時のCD旧規格では最大収録時間が74分強)では2枚組で「テ・デウム」とカップリングされていたが、そちらを入手していたら2楽章の半ばあたりで寝てしまい、DISC2に交換する気は起きなかったかもしれない。
 ちなみに、当盤は「名曲名盤300NEW」(98年版)ではあの小石忠男からも見捨てられ、ランク外に転落している。その後復活しただろうか?

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