交響曲第8番ハ短調
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
84/05/30
Deutsche Grammophon 445 529-2

 当盤に対して「最近発売になったジュリーニもしかつめらしい」と自著でケチを付けた評論家がいる。(スウィトナー盤の解説書でも、間接的ながら「本質からは遠い」と否定的に触れていた。)恥ずかしながら、私は「しかめつらしい」と誤読していた。つまり、この人は「顰め面」みたいで愛敬を振りまくことのない演奏は嫌いなんだな、と長いこと思い込んでいたのである。「しかつめらしい」という日本語があることを知ったのはごく最近である。(プロの作家にもずっと間違えていた人があるということをネット上で知った。ちなみに、ATOK15は「鹿爪らしい」と変換してくれない。当て字ということもあるが、現在ではあまり使われることのない単語であるためか?)結局のところ、彼は「真面目くさった」「堅苦しい」演奏はアカンと言っていたのだ。とはいえ、何となく近づきがたい雰囲気があるという点では共通しているのが面白い。
 が、どちらにしたところで、「ほんとうに優れた芸術は甘口専門ではない。もっと辛口で、苦い味わいを持っていたり、厳しく大衆を拒否したり、孤独で、深遠で、ときには近寄りがたい存在である」とか何とかいってカラヤンを散々貶していたのと同じ人間が吐く台詞とは思えない。「しかつめらしいブルックナー」が嫌なら、自分の振ったハチャメチャな演奏でも聴いて好きなだけ陶酔していなさい。ついでに書くと、その本が出たあたりから彼はヴァントを褒めるようになったので、私も「この人も少しはブルックナーが解るようになったのかもしれない」などと考えるようになったかといえば、ドホナーニの目次ページに書いたようにそんなことは全くない。ダメ押しをしておくと、彼のチェリビダッケ評も私には相変わらずの見当違いとしか思われない。浅岡弘和のサイトには「『チェリビダッケはベートーヴェンは良いがブルックナーはダメ』とか『チェリビダッケのブルックナーでも3、7は良いが4、8はダメ』とか勝手な事ばかり書いておられる」とあった。大ボケもここまで来ると「あっぱれ」を差し上げたくなる。とにかく、あの評論家がヴァントやチェリのことを口にするだけで私は不愉快である。退場!
 代わって別の評論家に登場してもらう。目次ページでも触れたが、私が初めて買ったジュリーニのディスクはフォーレの「レクイエム」である。解説執筆者の黒田恭一は、ジュリーニのレコードの数の少なさから始め、その中では声楽曲の割合が比較的高いことに言及してから、「なぜ、ジュリーニがフォーレのレクイエムなのであろう」と自問している。(ちなみに鈴木淳史は「クラシック悪魔の辞典【完全版】」にて、黒田が好んで使う「なくもない」「いえなくもない」といった回りくどい文体を揶揄するかのようにパロッていた。この解説書はまさにそれらのオンパレードであり、特に「いいがたい」は同一ページ内に何と4度も出てくる。とはいえ、解説自体はなかなかに興味深い力作である。)その次の段落冒頭から少し載せる。

 ジュリーニによる演奏は、いつでも、作品をぎりぎりのところまで追
 いこんだところでなされる。綱は引き絞られると、ギシッと音を出す。
 ジュリーニによってもたらされる音楽には、あの感じがある。ジュリ
 ーニの演奏にあっては、全ての音が十分に引き絞られている。

そのように引き絞られたところで発せられる緊張した音と、それまでの演奏によって慣れ親しんできたフォーレのレクイエムに対する認識には、わずかとは「いいがたい」ずれがあると黒田には感じられたらしい。なんとなくではあるけれども、かれの主張するところは、よみてにとってもまったく理解できないものではない、といえるだろう。(追記:さっき生協ショップに行って目次ページで触れたブラ2LAPO再発盤を買ってきた。今それを聴きながら書いているのだが、ブックレットの2ページ目=写真の裏で実質的に最初のページは黒田による追悼文らしきものが占めている。ところで、その最終段落は「ジュリーニは、ついに、ききてにきせようとはしなかった」で始まっており、「ハァ? 何を着せようとしたんや??」と訝しく思ったが、読み進む内にどうやら「き」と「せ」との間の「か」が脱落しており、本当は「聞かせようとはしなかった」あるいは「聴かせようとはしなかった」ということを述べようとしたのではないかと思い当たった。それにしても、上の「あいまい口調」に加えて黒田の文章に顕著に認められる特徴といえば読点と平仮名の多用であるが、その弊害がモロに出ている。このケースでも「聞」か「聴」を使ってさえいれば、運悪く誤植されたとしても即座に意味を取れたはずである。ついでながら、その段落に5度も出てくる「ききて」、同じく2度使われる「ことば」など、敢えて平仮名書きにする必要がどこにあるのかサッパリ解らない。「ぼく」や「かれ」にしてもそうだ。それ以前に名詞や代名詞と他の品詞との境目が判りにくくなるため読み辛いこと甚だしい。表意文字(漢字)と表音文字(ひらがな&カタカナ)とを共に使用するという日本語表記の性格上、両者が適当な割合で配分されている方がメリハリが利いていて読みやすくなると私は考えている。もちろん字種の使用頻度に個人差はあるだろうが、それにしても黒田の文章は明らかにバランスを失している。小学生の作文じゃないんだぞ! もっと読み手のことを考えて字面を選んでほしい。これでは「よみてによませるという一方通行の行為」に過ぎない。)
 つまり、「作品をギリギリのところまで追い込む」というジュリーニの芸風はこの8番と相性ピッタリではないだろうか、と私は考えたのである。7番だと「ちょっと厳しすぎる」「もう少し優しいところがあっても」などと言いたくなる。もちろん厳しさは9番にも向いている。だが、オケがVPOというのが落とし穴で、既に7番ページに書いたような時に汚いと聞こえてしまう響き(特にティンパニやブラスが加わる部分で顕著)は、神の営みを表現した9番では大きなマイナスである。(もし当盤アダージョのクライマックスや終楽章コーダのようなドンチャン騒ぎがあったら厳粛な雰囲気がぶち壊しだ。)また、遅い部分では音密度の低さが災いして間延びしてしまう危険も大きい。それらに対し、8番では曲の特性に救われているような気がする。規模が大きいため、基本テンポが遅くともユルユルになる半歩手前で踏みとどまることができるのだ。(もちろん限度というものがあり、無闇やたらと遅いのはダメである。同じく規模が大きいブラ1でもVPO盤はその感なきにしもあらずだが、ロス・フィル盤でオケが崩壊しないで何とか持ちこたえていたのは絶妙なテンポ設定のお陰である。)また、79番よりも世俗的なところが多いためか、盛り上がる部分で隙間を埋めるように耳に飛び込んでくる打楽器も耳障りとは感じない。ゆえに、アンサンブルさえしっかりしていれば迫力満点&スケール感タップリの演奏として肯定的に評価することも可能であるのだが、幸いにして当盤の演奏レベルは許容範囲内であった。

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