交響曲第7番ホ長調
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団
86/12
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 浅岡弘和が当盤について「あまり感心しない」と自身のサイトで述べているが、朝比奈75年盤のようなユルユル演奏を評価していた彼ゆえ、この60分を切る快速演奏を受け入れられなかったのはよく理解できる。一方、当盤に対する鈴木淳史のコメントを目にしたことはないけれども、彼は普段からギーレンを非常に高く評価しているし、「クラシックCD名盤バトル」のブル7の稿では同タイプのロスバウト盤を挙げていることからも、浅岡とは対照的に好印象を抱いていたと予想される。他ページにも例を示したが、嗜好が水と油ほども違う2人が全く異なる評価を下すのはむしろ当然であるから、読者は自分と好みが近い評論家の意見をディスク購入の手がかりとするべきであろう。当サイトで叩きまくっているのは言うまでもなく鈴木の方であるが、実際には彼の批評を判断材料として利用している場合が多い。
 話は変わって、当盤を聴いている内にふと「干物」という言葉が浮かんできた。別に食べたくなった訳ではない。(さっきまでとは別の評論家にいきなり飛んでしまうのも何だが、)宇野功芳が「名演奏のクラシック」中でベームによるワーグナーとブルックナーの「凝縮しすぎてひびきが拡がらない」演奏を形容する際に用いていたからである。彼としてはパサパサで潤いがないといった否定的ニュアンスを込めたつもりであろう。しかし、干物を作る目的は乾燥ワカメのように水分含量を下げて保存性を高めるためだけではない。スルメイカやホタテの貝柱、あるいは椎茸などが代表的だが、乾燥過程で蛋白質が分解し、グルタミン酸やアスパラギン酸といった旨味を呈するアミノ酸が増えることにより、生状態のアッサリした味から濃厚な味へと変化させることも狙いとしている。つまり、単に「干からびている」のとは訳が違う。ゆえに私は「地味ながら滋味溢れる演奏」(←駄洒落)を褒める場合に「干物のようなブルックナー」のような使い方をすべきであると考えている。
 そういうことになると、「噛めば噛むほど味が出る」がウリのシューリヒト&ハーグ・フィル盤はまさにそのものズバリである。またレーグナー盤も結構近いという気がしてくる。相当な快速演奏であるが、「透かし彫り」技法や大胆なテンポの変更に耳を惹き付けられる箇所が頻出するため、ボンヤリ聴いている間に終わってしまうということは決してない。指揮者の個性(アク)を所々で感じる演奏は蛋白質の分解に留まらず発酵もちょっとばかり進んだ干物のようで、この7番に限らず一度食べたらクセになる味と臭いを持っている。一方、当盤も淡々と進むように聞こえるけれども、曲者ギーレンの細かな配慮によってトコトンまで響きが整理されており、そのお陰で時にハッとするほどの美しさを感じることができる。もちろん「干物」の資格十分であるが、レーグナーのような臭み(強烈な個性)までは感じない。あるいは工場で製造される干物(手間暇のかかる天日干しの代わりに機械による加熱で乾燥させる)に近いかもしれない。不足しがちな旨味物質は化学合成によるグルタミン酸ナトリウム(つまり「味の素」)も添加した調味液にしばらく浸けることで補ってやる。そのため、複雑な味わいというよりはスッキリと分かり易い旨味になる。どうも東独と西独の指揮者および放送オケに対して、単に私が「家内制手工業」「工場制機械工業」というイメージを勝手&強引に押しつけているだけとも思えてきたのでもう止める。(と言いつつ最後に悪あがき。オーマンディ盤も新快速演奏だが、「干物」に入れていいかは悩むところだ。曲を全体的に縮めただけと聞こえるし、アダージョではクライマックスに向かってまっしぐらに突き進み一気に爆発して果てる。実にあっけらかんとした演奏ゆえ旨味は「隠し味」ほども感じない代わりに相当刺激的で、魚介類の干物の味とは明らかに趣を異にしている。強いて喩えれば強烈な香辛料をまぶしたビーフジャーキーといったところか。)

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