交響曲第5番変ロ長調
クルト・アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団
93/06/29〜07/03
Camerata 25CM-335〜6

 ブックレット最初の2ページに掲載されている解説であるが、技術的に難のある演奏を「昨今の指揮者に一番欠けているものを思い起こさせる」などとして何とか持ち上げようという意図は理解できたものの、執筆者が持ち出してきたのが「作りものではない自然の呼吸」とか「有機的な造形感」等ことごとく抽象的単語の羅列だったため、読んでいて非常に不愉快であった。「音楽の構造をただ知識のレヴェルで理解するだけでなく、その根底に潜む原理を感覚的に体得していることを窺わせるものがある」と尤もらしいことを述べながら、「原理」や「窺わせるもの」の具体性説明は何もなく、言いっ放しなのは言語道断である。鑑賞にもディスク評執筆にも参考となるような記述は結局どこにも見当たらなかった。(後に収録されている「プロデューサー・ノート」の方がよっぽど価値が高い。一方、9番フィナーレの補作で知られる音楽学者、ウィリアム・キャラガンによる曲目解説の方は、最初の段落でいきなり「ブルックナーが第2〜5番までを四部作として考えていた」、さらに踏み込んで「彼自身の≪ニーベルンゲンの指輪≫と言ってもさしつかえないほど」と大胆に主張しており、トンデモ学説の匂いプンプンながらもなかなかに興味深い内容であった。)音楽学者の評論は酷いというコメントをしばしば目にするけれども、確かにこんなんではそう言われても仕方ないだろう。駄解説はサッサと忘れて演奏に虚心に耳を傾けるに限る。
 ディスク評執筆を並行して行うため、超新星のごとく初登場で2位となった90年BRSO盤と聴き比べたが、あちらと比較すればさすがに分が悪い。技量の差はもちろんだが音色に艶がない。それが動的な第134楽章に留まらずアダージョにも影を落としている。ブルックナーが書いた緩徐楽章の中でもこの5番は特に輝かしさが求められると私は考えているので、地味な音色の当盤は圧倒的に不利だ。(ただし渋さを求める人はこちらを採るだろう。CupiDの評にも「素朴で押しつけがましさのない語り口と、その真摯な気迫は渋い曲想であるこの第5にはピッタリである」とある。)もっとも特定パートが極端に弱いということはないので、個人の身体能力では敵わないけれども組織力で何とか互角の勝負を挑んでいるという感じだろうか? 失点につながるような致命的なミスは聞かれないし、ティンパニが(チラベルトのごとく)前面に出てオケ全体をまとめる役目をちゃんと果たしているお陰で、フォルティシモの迫力や重量感では負けてはいない。が、演奏スタイルに大きな違いが聞かれないのはやはり痛い。少しでも精度の高い方を聴こうという気になるのが私の常だから。どうせ1枚に収まり切らないのであれば、いっそのことトータル85分以上かけて巨大な表現に徹しても良かったのではないかという気がする。もっと遅いテンポを採っても間延びしたり崩壊したりするほどこのオケは下手ではないだろう。実際、90年盤とのトータルタイム差(約1分半)のほとんどを生み出している第4楽章のスケール感は当盤が上回っている。ティンパニの立ち回りを交えた16分30秒以降の盛り上げ方などチェリ晩年の演奏を思わせる凄みを感じた。なお、ラストでテンポを落とすのは90年盤と同じだが、他のパートが弱いためにティンパニ連打の粗さ(粒が不揃い)が耳に付き、聴いていて少々辛いものがあった。が、幸いなことに崩壊には至っていない。ロスタイムでの失点は何とか避けられた格好である。

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