交響曲第8番ハ短調
エドゥアルド・チバス指揮ベネスエラ交響楽団
05/11/10
Mousike 1015

 アルファベットの綴りは "Eduardo Chibás" なので、ポピュラー音楽のページ立ち上げ時に定めた表記法に従えば「エドゥアルド・チバース」とするべきかもしれない。それはともかく、このキューバ人指揮者とベネスエラ響によるブルックナー録音(既に7〜9番がリリースされていた)の存在は通販サイトから得ていたが、当初買う気は全くなかった。フルトヴェングラーが1954年にカラカスで同オケとブラ1その他のコンサートを行ったと知り、「あそこもクラシック音楽が全くの不毛の地ということはないんだな」と思った私だが、当時はその程度にしか認識していなかったからである。(要は私が2年余り滞在したパラグアイと音楽事情は似たり寄ったりぐらいに考えていたのである。)ところが、ある音楽番組をNHK-BSで観て大変な思い違いをしていたことに気付かされた。
 それは2008年4月21日に放送された「オーケストラは人をつくる 〜 ベネズエラのユース・オーケストラ 〜」で、実は最初から観たいと思っていたものではなかった。日曜深夜の「クラシック・ロイヤルシート」を丸ごと録画したところ、お目当ての(というより、新聞のテレビ欄にはそれしか記載されていなかった)「ベルリン・フィル、ワルトビューネ・コンサート 2007」の後に入っていたのである。冒頭に出てきたおっちゃん(ホセ・アントニオ・アブレウ博士、ベネスエラ青少年児童交響楽団代表)のきれいな西語発音(ただし私の聴解力では字幕なしで内容を理解するのは困難)に耳を惹かれた私だが、その後の演奏シーンに目を釘付けにされた。何という凄まじい熱気! とくに「ウエストサイド物語」のマンボ(組曲「シンフォニック・ダンス」から)に圧倒された。いや、それだけではない。完成度も非常に高い。圧巻はマーラー「復活」の最終部分。あの曲を聴いて胸が熱くなったのは久しぶりのこと。終演後は我を忘れて拍手喝采してしまった。番組内で紹介された少年少女達の演奏技術も大したものである。ベ国では音楽教育が広く地方にまで浸透していること、のみならず高レベルであることを思い知らされた。(日本以上に盛んかもしれない。)
 そんな訳で、おそらくは件の青少年オケ出身のメンバーも少なからず在籍していると想像されるベネスエラ響の実力のほどを是非ともブルックナーで確かめたくなったという次第である。(今話題のグスターボ・ドゥダメル&シモン・ボリーバル・ユース・オーケストラによる "FIESTA" など数種ディスクに興味がない訳でもないが、それらを耳にする機会は早かれ遅かれやってくるだろう。そう思っていたところ、間もなく「名曲のたのしみ。吉田秀和。」の月1コーナー「私の試聴室」で採り上げてくれた。さすがはヒデカズ先生!)ヤフオクでの2度目のチャレンジで8番の落札に見事成功。無競争だった。
 で、聴き始めたはいいが、何かしっくり来ない。はっきりヘンと感じたのが第1楽章4分手前。こんなとこでアクセル踏むなよと文句を言いたくなった。さらに首を傾げたのが7分55秒以降の処理。爆演系指揮者のように勢いを付けてピークに突入する訳でなく、といって巨匠風に堂々と押し通す訳でもなし。端的にいえば「どっちつかず」なのである。いちいち書き出すつもりはないけれど、こんなんばっかしだから参った。ただし技術的には特に問題を抱えているとは思われない。これは予想していた通りだし、トータルタイム(約78分)および各楽章のトラックタイム(どれも中庸)から窺えるように基本テンポの設定は妥当といえる。
 スケルツォでは構造がシンプルなことが幸いしてか戸惑いを感じることも少なかったが、アダージョはとても落ち着いて聴いていられなかった。違和感のオンパレードとなったのがフィナーレ。冗談抜きに数え上げていけばそれこそキリがない。間が入るはずのところで入らない(あるいはその逆)、鳴っているはずの楽器が聞こえない(先に同じ)、妙なところで粘ったりする。良くいえば「極めて斬新」ということになるのだろうが、パートバランス、強弱の付け方、加減速する箇所とその程度など、あらゆる点で異様としか言いようのない演奏に面食らうしかなかった。
 ここで遅まきながらであるが、当盤はブル8のベネスエラ初演を収めているとのことである。そうなると先述の「はず」にしても私がこれまで聴いた欧州や北米などのオケによる録音によって固定観念を植え付けられているだけに過ぎないという考え方も可能だ。指揮者の経歴(演奏史)についてはイマイチよく知らないが、少なくとも楽員達は既存の演奏スタイルに縛られることなく、純粋に楽譜と向き合っていたはずである。その成れの果て、いや結実が今後同国、さらには南米のスタンダードとなるのか、それとも他地域出身の客演指揮者が持ち込むであろう「伝統」によって毒されて(あるいは解毒されて)しまうのかは全く判らないし、正直「どーでもいいですよ」という気分だが、こういう全く掴み所のない演奏で(7番はまあ我慢できても)9番は絶対に聴きたくないなあ。下手したらあのテイト盤をブービーに押し上げてしまうかもしれん。

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