交響曲第6番イ長調
リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
97/02/17〜19
DECCA POCL-1886

 まず併緑曲について述べなければならない。(ブックレットのパクリ。)意図が全く解らない。トラック1〜4まで「ゲーテ歌曲集」(ヴォルフ)の抜粋が収録されているが、こんな中途半端なカップリングは邪魔なだけである。いくらゲルネの歌唱が絶品であるとしても、だ。まあ9番のように交響曲の後に入っていないから、トラック5から再生すれば済むのが救いであるが・・・・もしかすると、これは映画の予告編のようなもので、歌曲集の全曲盤を買わせようという制作者の陰謀だろうか? (ヴォルフでふと思い付いたのだが、ブラームスの交響曲全集にリストのシンバル入り交響詩をカップリングするというアイデアはどうだろう? なかなかに皮肉が利いていると自画自賛したくなってきたのだが・・・・現実にあったりして。)
 ようやく本題の6番に入ることができるが、これは気に入った。あちこちのネット評を眺めたところ、シャイーのブルックナーは明晰さがウリとなっているようで、それが賛否両論いずれを唱える側の根拠にもなっているのだが、当盤ではそれが明らかにプラスとして作用している。第1楽章の主題提示(0分55秒)で対旋律のホルンがハッキリ聴き取れる。それはスクロヴァチェフスキと同じなのだが、あくまで節度のある音の出し方であるから、あちらのように奇を衒っているとは全く感じさせない。再現部(9分36秒〜)も同じ。その直前の9分28秒の繊細な表現も特筆ものである。6番の演奏でこのように抑制が利いていると、私は退屈と感じてしまう危険が大きいのであるが、当盤ではそうなっていない。明るい音色がここでは吉と出ている。アダージョも所々で弱音を駆使し、美しさと優しさタップリの演奏を聴かせてくれる。第3楽章はスケルツォ主部のゴリゴリ感とトリオの歯切れの良さが少々意外であったが、見事な演奏であることに変わりはない。
 これで終楽章も満点ならトップクラスの評価となっていたはずだが、最後の最後に疑問符が付く解釈が出てきてしまった。それまでは第1楽章同様にテンポと音量の切り替えが絶妙だったのだが・・・・7番のようにコーダで突如スローダウンしたりはしないけれども、14分07秒からは音が抜けていると聞こえてしまう。ジックリ聴けばラストの数秒がそれまでの半分の(倍遅い)テンポであると解るのだが、見事なまでの関節外し攻撃である。これほどのギクシャク感はそうそう耳にできるものではなく、「変態演奏」の資格十分といえるではないだろうか?

6番のページ   シャイーのページ