交響曲第5番変ロ長調
リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
91/06/11〜13
LONDON POCL-1378

 アマゾンマーケットプレイスに1300円で何度も出品され、私はその都度カートには入れていたもののレジに進む踏ん切りがつかなかった。(税込定価3059円からの)値引率として57%が表示されてはいたが、配送料・手数料の340円を加えたら実質的には44%引きにしかなっていない。要はお値打ち感不足だったのである。結局他の人に先を越されてしまっていた。しかしながら、マーケットプレイスから消えてしばらくすると再度出品されていたから、どこかにデッドストックを抱えている人でもいたのだろうか? これの繰り返しだったが、ヤフオクで3番を落札したことによって(3番以降では)欠けているのが5番だけになった行き掛かり上(?)購入することになった。既に目次ページでも述べているが、評価が大きく分かれる演奏のようである。コンセルトヘボウ管との録音としては第1弾となった4番に続くものであるが、シャイーのブルックナーは私が気に入らなかった曲(9番が筆頭)であっても部分的には面白く聴くことができたので、まあ元は取れるだろうという気楽な感じで再生に臨んだ。
 しかしながら、聴き進む内に「これは決して侮ることができない演奏である」と思い始めた。トータル75分台、私にとってはほぼ中点に位置する演奏時間である。快速でも堂々でもないという中庸テンポを採用しながらも決して中途半端な印象を与えない。5番演奏ではこういうのが実は最も難しいと私は考えている。成功例はヴァントなどごく少数に限られるのではないか。そして、当盤は中量級ではトップクラスの演奏として名を連ねることができていると思う。とにかく美しい。明るすぎず暗すぎずという音色がテンポと見事に釣り合っている。ホール&オケの貢献もあるだろうが、最大の理由はやはり指揮者の操縦が優れていることだろう。パートバランスもテンポ設定も文句の付けようがない。ふと思ったのだが、どことなくショルティ盤と似ている。ただし、あの狸囃子のようなポンポコティンパニが感興を損ねていない分だけ当盤が上である。前任者ハイティンクの71年盤はスタスタだし再録音することなくVPOと臨んだ88年盤はユルユル&スカスカだったから、当盤はブル5で本領を発揮するコンセルトヘボウ管がその実力をいかんなく発揮したという点でヨッフム盤(64&86年)に肩を並べるものといえる。(以下余談だが、解説の岩井弘之は滅多やたらとハイティンクを引き合いに出してシャイーを持ち上げようとしていたから、しまいには頭に来た。この汚い手口はまるで宇野功芳ではないか! 「ここでは自然で骨太の音楽の流れが生み出されているが、シャイーがブルックナーの本質を抑えているからに他ならない」も宇野文体そのものである。「息の長い旋律とそれを支える歌謡性、響きの質量感、彫りの深い表情」のように悉く具体性に乏しい言い回しながらも自分の考えている「ブルックナーの特色」とやらを挙げているだけマシだが。ついでながら、最後にシャイー&コンセルトヘボウ管のコンビの将来について「非常に明るい」という予測を出していたが、2004年にヤンソンスに取って代わられるまでの16年間も天下が続いたのだから彼の鑑識眼の確かさは一応認めることにしよう。)
 戻って、当盤に対し一部ネット上にて「個性が感じられない」「印象が薄い」という評価が与えられているのは至極尤もだと思う。「平凡の非凡」を具現化したような演奏だから。結局は「平凡」の先にあるものに思いが至るか至らないかの違いであろう(と書いてしまっている私もえらく抽象的だな。)問題点を指摘しておくと、第1楽章1分47秒付近をはじめ4拍子なのに3.95あたりで次の小節に移ってしまうように、つまり前のめりと聞こえる箇所があったこと。これはリズムの厳格さよりも歌謡性(←やな言葉だね)を重視した結果かもしれないが。そして、多くの人が感じるだろうが終楽章コーダ、それもラスト30秒ちょっとのブラスの鳴りが弱いことである。まさかスタミナ切れに陥った訳でもないだろうが、あまりにも痛い。もはや致命的といってもいいほどで、上位に食い込むチャンスを逃してしまった。まさに「画竜点睛を欠く」を具現化したような演奏である。(6番もそうだったが、最後の最後でズッコケてしまうのは何でだろう?)

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