交響曲第9番ニ短調
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
81/10/04
RE! DISCOVER RED-116

 「リアル・ライヴ」の海賊盤CD-Rをとうとう買ってしまった(諸経費込みでほぼ3000円)。ネットオークションでAUDIOR盤(AUDSE-511〜2)の入手を図ったのだが、3000円でも落とせなかった。やむを得ず封印を解くことになったが、出品価格の2600円そのままで落札できたので、まあ良しとしなければならないだろう。(2枚組でDISC1にはシューマンの4番とヒンデミットの「画家マチス」が収録されている。ヒンデミットはようわからんが、シューマンはムチャクチャ美しい。ブルックナー以上かもしれない。)
 AUDIOR盤の感想が9番専門サイトに載っている。ヒスノイズが多いということだが、幸いなことに当盤ではあまり気にならない。(一部の「緑」や「紫」ほど顕著ではない。)ヘッドホン使用でうるさいと感じるまで音量を上げたらようやく確認できる程度である。ノイズリダクションによってライブの雰囲気もバッサリということもない。「緑」や(さらにノイズが多いとされる)EXCLUSIVE盤とは別音源を使っているのだろうか? 何にせよありがたい。第1楽章に変な雑音が2箇所ほど入っているが、気になったのはそれぐらいである。上記サイトには2人(作成者ともう1人)によるコメントが出ているが、各々の最後の一文に私は完全に同意する。「これ(当盤)に慣れ親しんだ耳はEMI正規盤を不満に感じる事は間違いない。」「このブル9(正規盤)は海賊盤を駆逐できる出来映えではないと言わざるを得ないと思います。」 86年盤(AUDSE-520〜1)との比較では部分的に正規盤が上回っているところもあると思っていたが、当盤は正規盤を完全に圧倒していると思う。特に第2楽章。残響のお陰もあるが、当盤のスケルツォ主部には弾力性があって、テンポが遅くてもちゃんとスケルツォに聞こえるのである。
 それにしても壮絶な演奏である。チェリのブルックナーはどれも美しいのだが、当盤から感じる美しさは群を抜いている。同じオケを振ったヴァント盤(sardana)の「はかなさ」「せつなさ」を伴った美しさとは全く違う。(当盤はチェリ最晩年の録音ではないのだから当然といえば当然だが。)第1楽章の終盤、23分30秒頃から(ヴァント盤では22分44秒過ぎの「胸の奥から思わずこみ上げてくる」と書いた箇所)は、まるで避けがたい破滅に突き進む「悲壮感」のようなものが漂っている。そして繰り返し掛け声を入れる指揮者は、最初から負けると判っている戦に兵を向かわせる将軍のようである。ここに限らず、遅い部分は思いっ切り哀しく、速い部分は思いっ切り激しく演奏している。当盤はテンポの切り替えがチェリの他の9番よりも顕著であり、それが非常に効果的である。(アッチェレランドやリタルダンドではなく、曲想の変わり目でテンポをガラッと変えるが、これは正しい。)特に終楽章18分57秒からかなり遅くなるが(86年盤を聴き直したら同じことをやっていたが、なぜかあまり意識しなかった)、それ以降終わるまでの7分余りは本当に素晴らしい。(今はその素晴らしさを表す言葉が思い付かない。)長調に変わった時、「あれ、もう終わってしまうのか、残念だな」と心底から思った。このように感じたのは、Jリーグ発足後最初の2年のオールスターゲームを観た時ぐらいである。世界のトップスターによる競演(饗宴)に魅入られている内に、前後半90分がアッという間に過ぎてしまった。それに近い感覚である。
 ところで、5番EMI正規盤のページで鈴木淳史の文章を引いているが、そこに「チェリビダッケ特有の立体感」という表現が出ている。私は「何ゆうとるんや」ぐらいにしか思っていなかったのだが、当盤第1楽章コーダの27分丁度からわずか10秒足らずの短い間に聞こえたものは、もしかしたら「立体感」かもしれないと思った。(違うかもしれない。)耳を澄ませてみると(どのディスクでも通常聴かれる)金管の奥に別の響きの存在を感じたのである。豊かな残響によって生じた時間差に過ぎないのかもしれないが・・・・「かもしれない」連発になったのでこのくらいにするが、この「立体感」はヴァント盤からは聴かれなかったものである。その分だけ当盤が上回っている。よって1位に置くことにする。(最初は2位のつもりだった。)

2004年9月追記
 この81年の演奏が同じレーベルの別番号(RED-154)でも発売されていたことを知った。あるネット通販サイトの短評では「完璧ではない」とやや辛口の評価だが、「未完ながらシンメトリックな構成を見出したのか、終楽章の意識的作りは、不自然さを感じるくらいである」にはナルホドと思った。確かに当盤の美しさは「人工的美の極致」とでも言いたくなるが、時に同じ表現で貶されるカラヤンとは少々毛色が違うように思う。当盤のチェリからは、部分的な安定が破れることも厭わずシンメトリーを突き詰めているような印象を受ける。なお、そのサイトでも第2楽章ではチェリの本領が発揮されているとしているが、「巨象の踊りのような不気味さは偏執狂ブルックナーらしい最高の解釈」にはうまいこと言うなぁと感心した。ただし、同じサイトで当盤のことを「(シューマン、ヒンデミット、ブルックナー)どれをとってもチェリ&ミュンヘンpo.のコンビでしか成し得ない名演」と絶賛していたのはいただけない。繰り返すが、RED-116とRED-154のブル9は同一演奏なんだぞ。(書いたのは別の2人なんだろうけど。)

おまけ
 後で思い出したが、チェリ&MPOのブラームス4番の第2楽章で異常に遅くなる部分は、やはり「立体感」のようなものが聞こえなくもない。(AUDIOR盤、METEOR盤とも。正規盤は持ってないので知らん。)ついでに書くと、鈴木がチェリの一部のディスクからは「立体感」が聴こえてこないと書いているのはたぶん嘘ではないのだろう。しかし、それは「テンポの必然性」とはあくまで切り離してもらいたい。こだわるようだが、指揮者はちゃんと必然性のあるテンポを設定したはずなのだから(特に即興型ではないチェリのような指揮者の場合)。テンポに必然性を感じないのはもちろん鈴木の勝手(自由)である。が、批評するなら、「必然性がある」を前提として評論すべきではないか。(これも繰り返しになるが、「響き」「立体感」などは想像で補う、あるいはテンポから逆算することも十分可能であると思っている。生を実際に聴いたことのある人間ならば尚更だ。)逆に、「そもそも指揮者のテンポ設定自体が間違い」というストーリーでも構わない。(それを朝比奈ではやっているではないか?)どちらも嫌だというなら最初から俎上にのぼすべきではない。何にせよ、読者は評者の愚痴(録音への不満)など聞きたくないのである。

おまけのおまけ(←しつこい、ちなみに関西弁では「ひつこい」)
 鈴木が自著のあちこちに書いている「テンポの根拠」あるいは「必然性」に対して、これまで私はさんざん文句を付けてきた。彼の言いたいことがよく理解できず、イライラさせられてきたからである。ある日「クラシックCD名盤バトル」のブル7の項を読んでいて、彼の主張のどこがダメなのかが解った。

 たとえ、演奏が遅くても、その音楽が透明度に欠けていれば、
 まったく意味をなさないし、演奏が速くても、すぐれたバランスで
 鳴っていてくれれば、その美しさを堪能することができる。

上の「遅く」と「速く」をひっくり返しても文章としては問題なく成立する。つまり、何も主張していないのと実は同じである。(テンポが遅かろうが速かろうが、「透明度」「バランス」に優れている演奏を堪能できるのは当たり前である。)要はテンポと響きの関係について筆者は全く解っていないということである。解っていないのに解っているつもりで尤もらしいことを書くから、読み手にとってはチンプンカンプンなのだ。彼が何も解っていないと私が判断した理由をもう一つ挙げよう。同じ項から。

 また、テンポは曲の性格やその位置によって、自ずと決まってくるものだ。
 とくにブルックナーという作曲家においては、テンポを規定するための
 ものが曲のあちこちに張り巡らされている。たとえばこの曲の場合、
 第二楽章が妙に遅かったりすると、完全に興醒めである。

どこがダメなのかは説明不要な気もするが、念のため書いておくと、第3文の接続詞の使用法である。「たとえば」と言ったからには、前文にある「テンポを規定するためのもの」を例示するのが筋である。このケースでは、「曲のあちこち」がいったいどこなのかをまず述べるべきで、それに続けるとしたら「そのポイントをちゃんと押さえて正しいテンポを設定した演奏」についてであろう。貶すのはそれから後である。(既に他のページでも書いてきたが、「○○が欠けている」というストーリーで自分の気にくわない演奏を貶すのは鈴木の常套手段である。反対に「○○を備えている」として優れた具体例を挙げるということは滅多にしない。しても数行で終わりである。貶す時は数ページ使うくせに。)結局のところ、上の文章には何ら具体性がない。もっといえば実体がない。(当サイトのあちこちに書き散らしている阿呆の戯言あるいは妄想ならともかく、そんなので金を取ってはいけない。)だから、「何かゴチャゴチャ言っとるけれども、結局はみんな口からの出まかせ」と私が考えたのはむしろ当然である。(「ためのもの」というように「もの」という曖昧な単語を使っている時点で既にダメ評論である。)もしかしたら、彼の頭の中には一応「テンポを規定するためのもの」についての自分なりの考えが存在するのかもしれない。が、それを読み手に伝える努力を怠っているため、単に「興醒め」という低レベルの難癖を付けただけに終わってしまっている。少なくともそれは事実である。

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