交響曲第8番ハ短調
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
93/09/10〜13
EMI TOCE-9902〜3

>  ところで演奏時間については、最近、以下のような興味深い文章を目にし
> ました。DGによるチェリビダッケ・エディションの発売を遺族が許可した
> 経緯について彼の息子が語ったものです。一部を抜き出してみます。
>
>  父いわく、作品のテンポはスコアに記された数字によって決まるものでは
> なく、スコア内の他の要素、そして演奏がおこなわれる会場の音響によって
> 決められるものです。演奏されている(我々が耳にする)音の複雑な構成要
> 素とその随伴現象(音が一度放たれたのちに異なる響きが次々と生み出され
> る現象)によってテンポは変化します。簡単に申し上げれば、音が多ければ
> (つまり随伴現象が多ければ)多いほど、まとまった響きとしてそれらの音
> を全て知覚するのに時間が必要だということです。したがって音楽の内容が
> 豊かであればあるほどテンポは遅くするべきなのです。
>  いかなる録音技術も(それがライブ録音であっても)全ての随伴現象を記
> 録することはできません。そのため録音にはいつも物足りなさが残り、何か
> が欠けています。(中略)そして複数の随伴現象が欠けてしまうことから本
> 来のテンポが正当化されなくなってしまい、「遅く」感じられてしまいます。
                    (Kさんへのメール、00/02/14)

 ちょっと長めの転載で恐縮だが、上は「シェエラザード」のブックレットから書き写したと記憶している。他所にも書いたが、名古屋に出張した際に立ち寄った近鉄百貨店内の中古屋(果物の名前が付く)でチェリのAUDIOR盤を見つけたものの結局見送り、同じ日に大学生協でDG正規盤を買うという愚行を犯した。まさに「後悔先に立たず」である。ようやく昨年(2003年)ブックオフにて「クラシック名盤&裏名盤ガイド」で紹介されていた海賊盤(LIVE CLASSICS LCB-087)を入手したが、優秀録音&大熱演でとても満足している。(スヴェトラーノフ指揮による歌劇「サルタン皇帝の物語」組曲がカップリングされているが、こちらも名演である。)一方、正規盤は以前NHK-BSで放映(音声はモノラル)されたのと同一のスタジオ収録による音源を使用しているのではないかと思う。チェリの掛け声の入るタイミングがピッタリ同じだったからである。そうすると、CDケース裏の録音年月日も「ライヴ・レコーディング」もデタラメということになる。会場ノイズが全くないのでヘンだと思っていたが・・・・・こういう不信感を募らせるようなことをしていてはファンは離れるばかりである。両者を聴き比べたら音の鮮明さが全く違うので、負けた方を人に譲ったのは言うまでもない。
 さて、ここから本題であるが、この8番正規盤もライヴ特有の生々しさに欠けていると感じられて仕方がなかった。チェリビダッキが「随伴現象」という言葉を持ち出したのは、このような死んだ録音にクレームが来ることに対して「予防線」を張ったのではないかという気もする。第1楽章と第2楽章は予想していたほど遅くはなかった。特に20分を超える第1楽章がさほど遅く感じなかったのは恐るべきことである。これは指揮者の手腕だと思う。第2楽章のトラックタイム16分05秒は特に長いということはない。問題は前代未聞の演奏時間を記録したディスク2である。このディスクは何度も聴いたが、後半2楽章のどちらかでウトウトしてしまうことが何度もある。
 ここで脱線であるが、この曲がCD1枚に入りきらず2枚組になる場合、どこで2枚に分けるかについては当然ながら3通りある。8番単独の場合は一部に例外(3楽章と4楽章で分ける)もあるが、大抵は前後半2楽章ずつを2枚に分けている。他の番号と併録する場合、8番が先なら3楽章までをDISC1、4楽章をDISC2に、他の番号の後に来る場合は1楽章のみDISC1、2楽章以降をDISC2に収録するのが普通だ。私にとって一番望ましくないのは4楽章のみDISC2というパターンだ。他のパターンなら3楽章で居眠りしても、再び目覚めて最後まで何とか聞き通すという可能性もなくはない。けれども、この最悪パターンでは一度3楽章の途中で寝てしまうと、ディスク交換する気が失せてしまうのだ。当盤は2楽章ずつの収録なので、この点ではまだ救いがある。
 戻って、当盤の第3楽章はものすごーくのろく感じる。亀のような歩みである。第4楽章もえらーく退屈に感じてしまった。 許光俊は「クラシックCD名盤バトル」にて、AUDIOR盤を「柔らかい解け合った音質だが、逆に細部の表現力の切れ味が鈍っている弱点もある」と評したが、おそらく当盤に収録されている演奏を実際に聴いたであろう彼は、その時の記憶を頼りにして当盤を「切れ味が鋭い」と書いたのかもしれない。だが、私はそうでない。録音に足を引っ張られるせいか、演奏までをも「鈍い」と感じてしまうのだ。実演の記憶を持たなくとも「想像力」がある程度は補ってくれるはずなのだが・・・・やはり「リスボン・ライヴ」が偉大すぎるということなのだろう。あれを手に入れていなければ、当盤にもそれなりの良さを見つけていたかもしれない。
 ところで、許は当盤(93年と明記)をチェリによる8番最後の演奏と書いているが、これはどういうことだろうか? 実は私もAUDIOR盤(94年)より後に聞こえる。9番正規盤(95年)のように「こりゃちょっと耐えられんなあ」と感じるほどスローテンポなのは間違いなく当盤の演奏なのだから。まさか正規盤の記載が間違っているはずはない、と思いたいのだが・・・・・

追記:チェリのディスク評ページでは「随伴現象」という言葉を何度も使っている。それがディスクに入らないのは当然なのだが、上に書いたように「想像力」である程度は補えるはずである。ところが、それができるディスクとできないディスクがあるのが不思議で仕方がなかった。最近、朝日新聞(2004年5月19日付)で「脳が作る『聞こえない音』」という記事を読み、その謎が一部解けたように思った。断続的に無音区間を入れた音楽を聴いても途切れ途切れで、とても音楽とは思えないが、無音部分にノイズを挿入すると音がつながって音楽に聞こえるのだという。また、200ヘルツおきに2000〜2600ヘルツの音を同時に聞くと、実際には存在しない200ヘルツの音も「聞こえる」のだそうだ。フルトヴェングラーの音質劣悪なライヴ録音、あるいは私があるページで書いたようなノイズ入りまくりの短波放送を聴いても、ちゃんと「音楽」が聞こえたのも、このような脳の働きによるものであろう。要は「随伴現象」を想像、否、この場合はむしろ創造するための「とっかかり」さえあれば良いということではなかろうか。その「とっかかり」はたぶん実演の記憶でなくともノイズ(←会場ノイズはもちろんヒスノイズでさえ)でも何でもいいのだ。そして、過剰なノイズ除去は「とっかかり」を奪い去る行為に過ぎないと言えるのかもしれない。

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