交響曲第5番変ロ長調
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
93/02/14〜16
EMI 7243 5 56691 2

 7番MPO盤(AUDIOR)のページに追記として述べたように、この5番EMI正規盤はバイエルン放送の音源ではないということになる。鈴木淳史は「クラシック名盤ほめ殺し」中の「海」(ドビュッシー)の項でチェリのEMI録音について触れているが、バイエルン放送の音源(BRマーク入り)はワン・ポイント気味の録音で、実際の演奏に近い音がするのに対し、ミュンヘン・フィルが独自にマルチ・マイクで録音したもの(BRマークなし)は、本来のパート・バランスを失っているという点で音質に問題ありとしている。 (ついでに書くと、鈴木は後の「クラシックCD名盤バトル」でも、「EMIにおける正規盤の音場感が悪くないこともあって(バイエルン放送の音源を使っているものは合格点)」という理由で「わたしはチェリビダッケのベートーヴェンを深く愛好している」などと「田園」の項に書いている。)さらに彼は、天使にこのように語らせている。

 音の透明感がなくて、さっぱりチェリビダッケ特有の立体感が
 聴こえてこないじゃないか。この演奏からはなぜテンポを遅く
 しなければならないかという必然性が音としてきこえてこない。
 実際のコンサートで示されたとおりのパート・バランスが聴こ
 えなければ、ただの遅いだけのマヌケな演奏だ。

まったく想像力の乏しい男である。「方針その他」のページに書いたが、こういう評論家には実際に聴いた指揮者のディスクを評論するのはもう止めてもらいたいと切に願っているのは私だけだろうか? 「想像力」については既に音楽評論家各論の鈴木のページに散々ぶちまけたので、これ以上は書かないが、「必然性」にはどうしたって「またかよ」と言いたくなってしまう。単刀直入に「バイエルン放送の音源を使っているディスクからは必然性が音としてきこえ、そうでないものからは全くきこえないのか?」と訊いたら、彼は毅然とした態度で「然り」と答えるだろうか? パート・バランスをそのまま収録することなどできっこないという点で、私にゃBRマーク入りも無しも五十歩百歩としか思えんのだが・・・・まあ、彼の耳が超人的に優れているという可能性までは否定しない。
 いずれにしても、パート・バランスが「どの程度」(「入っている/いない」のようなデジタル式は却下)聴こえていれば必然性が音としてきこえるのか、そして優秀な録音では「どのような」必然性が感じられるのかを、具体的に(チェリのBRマーク入りディスクを例にとって)説明する責任はあるのではないか。それを怠っているなら単に難癖を付けただけのマヌケな評論だし、何かを否定する場合のみ「必然性」を持ち出してくるのは「ダメ評論家」のすることだと思う。「そのディスクをわざわざ取り上げて批評する必然性が全く感じられない」とか「鈴木の文章からは、彼がなぜクラシックの批評を職業にしなければならないかという必然性がまるで感じられない」のようなこと言われたら自分だって困るだろうに。
 そもそも「実際のコンサートで示されたとおりのパート・バランスが聴こえる」を「テンポを遅くする(あるいは速くする)必然性が音としてきこえる」の根拠とすること自体、かなり無理があるような気がする。岩城宏之の本に出てくるが、その日の気分や天候によってテンポを前日までとはガラッと変える指揮者もいるようだし。まあ、チェリビダッケというかなり異色の指揮者に限っては鈴木の考え方も通用するのかもしれない。結局どーでもいい話をダラダラ書くことになってしまった。
 ようやくディスク評に入る。あまり期待せずに聴いたけれども録音はそれほど悪くなかった。9番正規盤と同程度のクオリティは保っており、これに文句を言ったらバチが当たるだろう。SDR盤のページに書いたように、当盤は最晩年だからといって極端に遅くはなっていない。8年前に同じMPOを振ったAUDIOR盤(AUDSE-523/4)と比較しても、1分半長くなった第2楽章はさすがに基本テンポが遅くなったことが判るが、他の楽章のタイム差は1分以内に収まっている。(未聴の86年盤=AUD-7007/8とは時間差はほとんどない。)実際にヘッドフォンによって両盤を聴き比べてみた。
 ザワザワ感などライヴの雰囲気がしっかり捉えられているのはAUDIOR盤の方で(残響も貢献している)、左右の分離も良い。一方、パートの分離という点では音がクリアーなEMI盤も負けておらず、木管ソロの生々しさ、美しさでは上回っていると感じた。さらに印象に残ったのはティンパニである。AUDIOR盤でも第1楽章の終わりなどで結構目立っていたが、当盤ではまさに八面六臂の大活躍である。鈴木淳史が「こんな名盤は、いらない!」のブラ1の項でこのように書いていたのを思い出した。

 もし、ミュンヘン・フィルの名ティンパニスト、
 ザードロが強い調子で各所に楔を打ち込まなかったら、
 何とも茫洋とした、収拾のつかぬトンデモナイ
 演奏になったことは間違いない。

この演奏では8番の34楽章のように常軌を逸した遅いテンポは採用していないので、「収拾のつかぬ」ということはないけれども、ここでもザドロの切れ味鋭い打撃は非常に効果的である。(録音のせいか、全体的にやや乾いた音色が鋭さを感じさせる大きな原因かもしれない。)特に第4楽章後半、16分30秒過ぎからは聴いていて寒気がした。またしてもブラ1だが、MPOとのAUDIOR盤の19分以上もかける終楽章の終盤、コラール風のテーマが再現する部分と記憶が重なった。ブラ1聴き比べのページには「終楽章後半のティンパニのすさまじい炸裂は地獄のクライマックスとでも呼びたくなる聞き物」と書いているが、当盤でも地獄絵図が目前に展開されているようである。(AUDIOR盤は響きが溶け合っていることがここではマイナスに作用しているように思う。音が柔らかいので壮絶さが地獄レベルまで達しないのだ。)エンディングでも鬼の形相で叩き続ける奏者の様子が目に浮かぶ。(4番の映像を観たときはそんなことはなかったけど・・・・)マタチッチみたいにコーダだけ改訂版でやったらどんなに凄かっただろう。
 ということで、この5番に関してはEMI正規盤を購入しても損はないと思う。安価な中古を見つけたら、という条件付きだが。こればっかりだが、テ・デウムやリハーサルは5番や8番に併録し、7&9番の2枚組で再発したらどうかね、とボッタクリ業者には言いたい。そういう形で再発されるまで新品は絶対に薦めない。

5番のページ   チェリビダッケのページ