交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
70/09
LONDON F28L-28048

 当盤は私が最初に買った3番のディスクである。買った理由は「ロンドンCD名盤2800」シリーズが発売されたからである。その頃はまだ「F35Lxxxxx」の時代であったから、1枚2800円というのは破格値であった。(2枚組も5000円とこれまたお値打ち価格だったので、同時に発売された5番マゼール盤を買った。)マタチッチの5番チェコ・フィル盤ページに書いたが、私はこの3番もしばらく(1年ほど?)はレンタル屋で借りたCDのダビングテープで聴いていた。それはクーベリックのCBSスタジオ録音盤(32DC549、初発後1度も再発なし)だった。結構気に入っていた。ベーム盤はそれに比べたら面白味がないように感じ、3番を聴く機会がガクッと減ってしまった。(ただし、版の違いについては全く気が付かなかった。まったく呑気なものであったとしか言いようがない。)もしクーベリック盤が同じ価格だったらそちらを買っていたと思う。(昼食2日分に相当する400円の違いは決して小さいものではなかった。せめて4番と同じく「ベストクラシック100」シリーズに入っていたら・・・・)その後の3番に対する印象も大きく変わっていたに違いない。(ちなみに、そのCBS正規盤は未だに入手できていない。代わってライヴ録音の「鐘」盤を聴いている。→2005年5月追記:今月18日に待ちに待った正規盤(SICC-261)の再発! 嬉しいことに定価1250円という廉価盤である。もちろん予約して発売日に入手した。)
 ここでは次に解説について触れねばなるまい。「このディスクを聴いてみると、ウィーン・フィルは、確かにやる気十分の姿勢を見せている」で始まる。「ほほう」と思う。ところが続いて「どの点が具体的にそうなのかと指摘するわけには行かぬが」と来て、「あれれ」となる。その後、ブルックナーとウィーン・フィルとの関係について論旨が行きつ戻りつした挙げ句、「ベームでブルックナーをレコーディングするということに、ウィーン・フィルは、待ちこがれていたのではないかということにもなる」で結ばれる。長々と書いてきて結局それだけかい! (まったく恐るべき水増し戦法である。)第2文冒頭部に象徴されているように、極めて具体性の乏しい段落である。
 次の段落から演奏評になるが、こちらも「ベームの指揮にかかると、その休止(註:ブルックナー休止のこと)が不可欠のものに思える」「ベームのみに可能なデリセート(ママ)な表情」などいろいろ特徴を挙げているものの、やはり「どこが」を具体的に書いてくれないので、実際にディスクを聴いてみてもサッパリ解らない。その最たるものが、これまた唐突に出てくる「全体にあふれる宗教性」である。直後に「聴く者を陶酔の世界に誘い込みする」とあるから、筆者の個人的体験をそのまま文字にしたのだろうが、それをこちらに押しつけられても迷惑である。そもそも「陶酔の世界」に誘い込むものは決して「宗教性」だけではあるまいに。次の段落はさらに凄かった。以下はその冒頭文。

 このアルバムのもう一つの特徴は、音の響きが
 ウィーン・フィルの特質を残しながらも、
 まったくブルックナーのものになっていると
 いうことである。

「ウィーン・フィルの特質」の説明は全くなし。「ブルックナーのもの」についても弦や管がどうのこうのと言っているが、結局は「やはりブルックナーを感じさせる」で何の説明にもなっていない。筆者は「ブルックナーの作品のレコードで、このような響きに出会うことは、頻繁にあるものではない」としているが「ブルックナーのCDのブックレットで、この門馬直美の書いたものほど無内容の解説に出会うことは、頻繁にあるものではない」と言わせてもらう。こんなんだったら曲目解説だけの方がよっぽどマシだ。(既に読者には、私が当サイトのあちこちで宇野や許、鈴木らが書いたことにイチャモンを付けているのを目にされていようが、それは彼らがハッキリとした口調で述べてくれているからである。そのお陰で、私は「おかしい」と思った所を目がけて襲いかかることができるのである。けれども門馬の解説は内容以前の問題、まったく噛みつきようがない。)
 それでは演奏評に移りたいと思うが、私が買った2枚目の3番が(あくまで自分にとって、だが)「究極」ともいえるヴァント盤だったというのが当盤にとって最大の不幸であった。3番目次ページにあるように「ユルユル」に聞こえて当然である。改めて当盤を聴いてディスク評を書くのであれば、ヴァント盤にはなくて当盤にあるものを聞き出さなくてはならない。
 ということで、ヘッドフォンで集中して聴いたのであるが、こんなにも「ユルユル」とは思わなかった。既に第1楽章52秒頃から合奏が微妙にずれているのに気づく。 2分22秒〜の全奏はバッチリと決まっているのだが、次の全奏では3分少し前から狂ってくる。(「まさか終楽章の『こだま』のリハーサルをしてるんじゃないだろうな?」と言いたくなる。というのは冗談だが、このオケにとってあそこはお手のものだろう。)激しいところだけでなく、叙情的なところもリズムが甘いので立ち上がりが鈍く聞こえる。4拍目が終わっていないのに他の楽器が入ってきてしまう箇所がいくつもあった。11分32秒のクライマックス直前のティンパニもずれていて脱力。こんな風に挙げていけばキリがないが、とにかく詰めが甘い。さすがはヴァントの厳しい練習に文句を付けたオーケストラだけのことはある。(コンサートマスターが「そんなスミをほじくるの僕らは好きじゃない」と言ったらしい。)これを先述した門馬の解説中にある「ウィーン・フィルの特質」と呼ぶならば、おそらくは指揮者がリズムの正確さをうるさく要求しなかったために(晩年はそんなことは気にならなくなったのか、あるいは元々そうだったのかもしれないが、とにかくそれゆえヴァントとは異なり良好な関係を結び、保つことができたのだろう)、まさに甘さタップリの演奏になっている。ただし、テンポ設定は概ね妥当で突如走り出したりしないから、聴いていて苛つくようなことはない。甘さが「大らかさ」という美点に感じられることもあるだろうから、細かいことが気にならない人にはお薦めできる。
 最後にしつこいようだが、上記門馬の解説にあった「ブルックナーのもの(音の響き)」について。「田舎者」ブルックナーの音楽だから当盤のような大らかな演奏こそ相応しいと考える人もいれば、許光俊のように作曲者の「偏執性」(後註)に注目し、ヴァントやチェリビダッケの演奏を推す(そしてVPOの演奏に「ちょっと違う」とクエスチョンを付ける)人もいる。私は「どっちでも感動できたらそれでいいんじゃないの」ぐらいに思っているようないい加減な人間である。(今思い出したが、これは「クラシックを聴け!」に出ていた「間違った感動」だな。)ただし、当盤に対しては「そっちのやり方だったら、もうちょっとスケールの大きい演奏にして欲しかった」と愚痴をこぼしたくなってしまう。4番はその点で文句の付けようがないのだが。

註(と脱線)
 「クラシックの聴き方が変わる本」で許が執筆した「ドイツとオーストリア混同の誤解を解く」によると、自分のやりたいことをひとりで閉じこもって極めた作曲家ブルックナーの音楽は、ヴァントやチェリビダッケのような突き詰めるタイプの指揮者による演奏の方が密度が高い音楽になるとのことであるが、この指摘は正しい。彼らのディスクと当盤を比べるまでもない。
 ここから脱線するが、許はヴァント&ケルン放送響のブルックナー全集が初めて日本で紹介された時に、ドイツ的素朴さとか伝統的演奏といった言葉で片づけられたのを振り返って唖然としたと書いていた。彼によると、「ヴァントの理詰めの構造性がブルックナーの偏執性とシンクロしている」とのことである。
 私はそれで思い出したのだが、学生時代に発刊されたばかり(たしか創刊号)のクラシック専門季刊誌にて「今ドイツではギュンター・ヴァント(「ワント」だったかな?)と北ドイツ放送響によるベートーヴェンの交響曲全集がベストセラーになっているのだという。それは、いかにも『ドイツ的』とでもいうべき素朴なスタイルが受けに受けているからなのだそうだ」というような文章を読んだことがある。(細部は違っているかもしれない。誌名も執筆者も忘れてしまった。)しかしながら、私はこのベートーヴェン全集を聴き、素朴どころか相当にマニアックな演奏に聞こえた。どこか(過去の職場の自己紹介ページ?)で書いていたと思うが、4番2楽章を聴いていた時に(通常は陰に隠れてあまり聞こえない)弦の執拗な刻みに思わず背筋がゾクゾクしたことは忘れられない。
 ところで、(最近はどうなのかは知らないが、)ヴァントのブルックナーが注目されだした頃においても、まだ音楽評論家はベートーヴェンとブラームスのディスクには極めて冷淡だった。「名曲名盤300NEW」(98年版)ではベートーヴェンへの投票は皆無、ブラームスでは唯一宇野が1番の新盤に7点を入れただけに留まっている。その前の「名曲名盤300」(93年版)では、ベートーヴェンの1番に柴田龍一が辛うじて2点を投じただけでブラームスの獲得ポイントはゼロだった。その柴田にしても「これは、筆者が想い掛けない感銘を受けた演奏であり、掘り出しものとして読者諸君に紹介しておきたい」というように、当時のヴァント(ワント)はせいぜい「掘り出し物」扱いだったのである。たぶん他所で書いているが、私がヴァントのディスクとして真っ先に他人に薦めたいのは80年代録音のベートーヴェンとブラームスの交響曲全集であり、ブルックナーならNDRとの3番と考えている。458番BPO盤や789番NDR盤はそれらの次に位置づけているが、その理由はヴァントの本領と言うべきマニアックさがやや後退しているように感じられるからである。

おまけ
 たしか当盤は「レコード・アカデミー賞」を取ったはずであるが、結局のところそれだけの値打ちのある演奏とはどうしても思えなかった。(当盤を購入した頃は、CDカタログや音楽雑誌のディスク評は常に正しく、この賞の権威も絶対的なものだと勝手に思い込んでいた。)当時はレコードの発売点数が少なかったため、強力なライバルが存在しなかったのだろうか? それとも、業界最大のレーベル(ポリドール)による著名指揮者&オーケストラのディスクだけに、御用評論家としては「お約束」の授賞をしない訳にもいかなかったのだろうか? そんな邪推をしたくなるほどの(大したことない)出来映えである。

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