交響曲第7番ホ長調
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
06/11/23〜25
Querstand VKJK 0708

 このところブルックナーのディスク評執筆が低調である。(こんなこと書くと「元からそうやないか!」という鋭い突っ込みを入れられそうだが。)先に「ポピュラー音楽のページの目次」に記したように、それは昨年から薄々感じていたことである。が、それにしても近頃の手抜きは我ながら目に余るものがあった。どうしても欲しいという品でもないのに手を出してしまったことに対する言い訳ばっかしではないか。実は当盤にしても最初は既にシュターツカペレ・ドレスデン盤を保持しているため見送りの方針だったが、結局は惰性的に(マルチバイ割引の数合わせとして)注文してしまった感がなくもない。これでは今から思い遣られる。(だったら最初から買わなきゃいいのは解っちゃいるんだが・・・・)
 こんな私の体たらくとは対照的に当盤の充実ぶりはどうだろう。SKD盤評ページで指摘した問題点(第1楽章コーダの微加速や金管のケバい音色など)は全て解消されている。これだけなら「仕上がりが丁寧になった」で済んでしまうところだが、それに留まらない。旧録音(26年前)と比較してスケール感が格段に増しているのだ。演奏時間や解釈がガラッと変わったという訳でもないのに・・・・月並みだが「円熟」という言葉を持ち出すしかないような気がする。一聴して似ているなあと思ったのがザンデルリンクの演奏である。高い所から低い所へ水が流れるごとく、音楽の全てが自然体と感じられてしまう。それゆえ私はシュトゥットガルトおよびバイエルン放送響盤ともに超名演と評価した。だが当盤は少し違う。全曲にわたって生命力が漲っている。つまり(拡散を利用する)受動輸送ではなく(濃度勾配に逆らうためエネルギーを必要とする)能動輸送型の演奏であるといえる。そのため当盤を「ああきれいだなー」などと思いつつ聞き流すことは全く不可能であった。第1楽章のエンディングでティンパニが炸裂する。本来ならルール違反としてイエローカードの1枚ぐらい出したいところだが、指揮者の「ワシはまだまだ枯れとらん、まだまだ現役続けまっせー」という強烈な意志表示のようにも聞こえ、思わず手を引っ込めてしまった。そもそもショルティのように金管を引っ張ってはいないから我慢できないこともないのだが・・・・なお終楽章ラストではさらに大見得を切っており、こうなると審判の方がスゴスゴと退場するよりない。
 アダージョもちょっと考えられないような超高密度演奏である。これを聴くと、この楽章に25分以上も使ってきた一部指揮者はいったい何だったんだろうと疑問に思わざるを得ない。「チンタラプレーでロスタイムを発生させていただけと違うか?」と文句も付けたくなる。旧盤同様にクライマックスでは三種神器のうちティンパニだけが参加している。(この静謐さを湛えた演奏に円盤や三角形による金属音は論外である。)前楽章の締めの「ドン」の流れを汲むならやはり入れるべきと判断したのだろう。解説にも「まことに好ましい」とあった。(ついでながら例によって執筆者不明のライナーについて。限られた字数で演奏の特徴を言い表しているのはまことに好ましい。ただし帯にも使われていた「スピリチュアルなものを感じさせるのである」という一文はいただけない。宇野功芳の「精神性」と同じく全く具体性がないから。どんな状況であれ、こんな言い回しを無神経に使う人間に大した奴はいないと言い切っても構わないのではないかとすら私は思っている。)
 某掲示板の指揮者のスレッドには当盤発売直後から賛辞が並んだが、「これは…神、降臨しとる…!」に私も同意である。大化けとは思わない。80年代(DENON)と90年代(DECCA)との間に引いた線をそのまま延ばしていけば辿り着くべきところに辿り着いたという印象である。そういえばブロムシュテットが以前から数々の名演を成し遂げてきたにもかかわらず「名指揮者だと誤解されてしまった」(オーケストラが素晴らしいだけ)などと書いていた評論家がいたが、もし当盤を褒めるようなことがあっても指揮者の将来性がまるで見えていなかったという理由で「節穴」との誹りから免れることはできない。(二枚舌まで駆使していた宇野よりはマシだが。)
 これだけの演奏をザンデルリンク盤の下に置く訳には絶対いかない。ついにトップを入れ替える日が来た。たまにではあってもこういうのに巡り会えるから、やっぱり新譜のチェックも当分止められそうにない。しゃーないか。

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