交響曲第9番ニ短調
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
90/02〜03
Deutsche Grammophon POCG-30012

 既にオーマンディのページでも触れたが、「名指揮者列伝」(山崎浩太郎)のカラヤンの項によると、「CBS時代のバーンスタインは話題性には事欠かなかったものの、彼とNYPのレコードの売り上げはオーマンディ&フィラデルフィア管に遠く及ばなかったし、DG移籍後にしてもカラヤンの対抗馬のようにいわれながら売り上げはカラヤンに遠く及ばなかった」そうである。さらに山崎は「二十世紀後半のヨーロッパとアメリカで、美食教養主義の頂点を極めた二大指揮者の後塵を、指揮者としてのバーンスタインがつねに拝していたというのは面白い」と書いていたが、たしかに面白い。(ついでながら、同著あとがきで山崎も言及しているが、単行本の元となったレコ芸のシリーズ連載からはバーンスタインとショルティが抜けている。"Great Conductors of the 20th Century" シリーズの人選から漏れたためやむを得なかったのであるが、「彼ら『大物』を無視しておいて何がグレートじゃ」と私は山崎に変わってアホIMGに言いたい。)オーマンディに負けていたという話は私にとって全く意外だったが、カラヤンの後塵というのは何となく理解できる。
 ここからは目次ページの繰り返しだが、ベートーヴェン全集(77〜79年)は明らかに最大公約数的な演奏で魅力に欠けるし、ブラームス全集(81〜82年)にしても意欲ばかりが先走りしているという印象が拭えず、あの「ジャジャ馬」だったCBS時代の魅力をすっかり失ってしまったように思えてならなかった。「クラシックB級グルメ読本」中の「クラシックの首を絞める者たち」(荒俣育代執筆)には、「CBS時代は日本ではサッパリ人気の出ない万年青年=若造という扱いだったバーンスタインが、DG移籍後一気に巨匠に登りつめてしまった」などと書かれていたが、あるいはレーベルから泰然たる巨匠としての風格を備えるよう求められ、指揮者もそれに何とか応えようとしたのかもしれない。やはり最初から無理があったのだ。ようやく85年に始まった2度目のマーラー全集録音あたりから「やりたい放題」が復活してきたように思う。ただし、私が愛聴しているDG盤はニューヨーク・フィル(チャイコ&「復活」)およびコンセルトヘボウ管(マラ9)、シカゴ響(タコ1&7)で、おそらく最も録音数が多いと思われるウィーン・フィルとの演奏は(私的にだが)圧倒的にハズレの比率が高い。やはり(技量はともかくプライドだけは)世界一を謳うオケと「成り上がり」イメージの強い指揮者の相性がイマイチなのは仕方ないということだろうか? と長いこと思っていたのだが、後に入手した86年録音のシベ2は悪くなかった。「世界最高のクラシック」の著者をして「サディスティックなのかマゾヒスティックなのかわからない」「猟奇的あるいは変態的な感じ」(86年の「悲愴」)「これほどまでにどん底の暗さを奏でた指揮者はあまりいない」「常識からいえばめちゃくちゃにブチ切れた解釈」(88年の5番)とまで言わしめたチャイコフスキーと同時期の録音であるためか、カラヤン&BPO盤(80年の再録音)に匹敵するほど桁外れのドロドロ感が何ともいえずたまらない。「クラシック名盤&裏名盤ガイド」にてこの曲の項を担当した阿佐田達造によると、「チャイコフスキーにマーラーの衣装を着せてジャン(ヤン?)しちゃった、という感じか」ということだが、ならば私の気に入らない方がおかしい。(さらに阿佐田は「この曲の近代性を露わにしているはずの第2楽章を、まるでマーラーの葬送行進曲風に変えてしまい、極限まで遅められたテンポの中で身悶えしている有様だ」とケチを付け、カラヤン盤とセットで非難していたのだが、だいたいロシアに虐げられていた時代のフィンランドに生きた作曲家の音楽がどうしてスマートなものであり得ようか。だから、ぼくは英国系や北欧系指揮者の妙に洗練された演奏などいっさい聴く気がしない。時間の無駄だからである。あれっ?)さらに、このブル9は後期三大交響曲録音のラストを飾った壮絶極まる4番の翌年に演奏されている。ゆえに「晩年になって異常な音楽を奏でるようになってしまった」バーンスタインが、ここでは何か途方もないことをやってくれているはずと期待してもバチは当たらないはずである。東京出張時に都内の中古屋で入手したと記憶しているが、詳細は憶えていない。
 トータルタイムはNYP盤より5分以上伸びた。が、これは旧盤で駆け出していた部分が「まとも」になったためで、テンポの振幅ははるかに小さくなっている。第1楽章は冒頭からビッグバンまで堂々たるテンポを貫いている。(DG移籍後に巨匠スタイルへの転向を求められたバーンスタインには、かつてのイケイケ演奏は許されなかったのであろう。ブーレーズほど酷くはないが、「CBS時代と比べたらつまらなくなった」とこぼすオールド・ファンが少なくないのも肯ける。)いうまでもなく当盤の方が「自然」でブルックナーらしいといえる。私の印象も格段に良い。ただしビッグバンの途中(2分45秒〜)から減速し、チェリ級スローテンポで盛り上げるところなどは、マーラーやチャイコなどでも聞かれた最晩年の「やりたい放題」の面目躍如である。また、ビッグバンの最後の仕上げが済まない(完全な静寂が訪れない)内にピチカートが乱入して次に移ってしまう(3分11秒)。これも奇異な感じを受けた。そこで旧盤と比較試聴してみたのだが、確かにそちらでも同じ解釈を採ってはいたものの私が聞き逃してしまうほどにも耳に付かなかった。つまり(結果的にVPOとの最後の演奏会となったらしい)再録音では独自の解釈を手加減なしに音にしているといえるだろう。それが顕著なのはスケルツォ主部の「ダダダッダッダッダダッ」、および第3楽章コーダ直前(24分01秒以降)の32音符攻撃の強調である。特に後者は69年盤では静かになってからはかなり滑らかになっていたが、当盤では一貫してザワザワと波立たせるように弾いている。(この解釈について浅岡弘和は、「旧盤同様バーンスタインは『パルジファルのこだま』をトレモロでなく32分音符でやっていて面白いが繊細さが消し飛んでしまった」と述べている。私は「パルジファル」の該当箇所を知らないけれど、確かに「面白さ」と「繊細さ」のどちらに重きを置くかで評価はハッキリ分かれるだろう。)
 要は全体としての均整は旧盤より取れているものの、代わって部分部分へのこだわり(偏愛)には歯止めが利かなくなったというアンバランス演奏なのである。結果としては聞き手にグロテスクという印象を与えることになる。(ただし同じVPOとの演奏でもジュリーニ新盤のような「極度に肥大した」という印象を受けないのは不思議だ。音色がさほど汚く感じられないためだろうか?)が、それこそが最初から指揮者の意図したところではないかという気がしてきた。第1楽章終盤から既に宇宙は終末を迎えようとしているかのようだし、フィナーレ冒頭(弦のうねりが凄い!)は滅んでしまった宇宙へのレクイエムのように聞こえてしまった。バーンスタインの宇宙観によると「無」こそが本来あるべき姿(?)で、宇宙は存在すること自体が不自然な状態という「異物」なのかもしれない。そんなことすら考えたくなった。ゆえに9番目次ページに書いたようなストーリー(妄想話)は全く当てはまらない。どうにもこうにも掴み所がなく、私にとっては「異色」としか評しようのない演奏であった。退散。

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