交響曲第9番ニ短調
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
69/02/04
SONY Classical CSCR-8165
 「クラシックCD名盤バトル」の「ジュピター」交響曲の項で許光俊はバーンスタインの旧盤(68年NYP盤)を挙げた。(さらにVPOとの新盤も「生きていくためのクラシック」で推している。)その第2段落は「モーツァルトに限らず、作曲家晩年の作品はしばしば、力が抜けた、重量のない、空気のような音楽になる。この世への執着がない、生命力が薄れると言ってもいい」とある。実は私もかつて似たようなことを書いていたのである。以下は例によってKさんへのメールで、二重の引用符号は彼の執筆分である。(モーツァルトに関しては見解が異なっているようであるが。)

> ところで、作曲ということで少し脱線させてもらいますが、以前NHK-FM
> での武満氏と宗教学者の中沢新一氏との対談で、中沢氏が「武満さんの曲
> を聴いていると、作曲中の武満さんはいわゆる「狂気」の状態にあるので
> はないかと感じることがある」と述べたのに対して、武満氏も「そうかも
> しれない」と答えていました。(関係ないけど、将棋の羽生四冠王も手を
> 読むことに没頭している間は自分が狂気状態にあり、もしかしたらこのま
> ま正気に返れなくなることもあるのでは、などと後で思うけれども、戻れ
> なくなることへの恐怖と共に憧れも持っているというようなことを言って
> いました。)芸術家が傑作を創る時は必ず霊感・インスピレーションに憑
> り付かれるなどと言いますが、こういうのも一種の狂気状態に陥るという
> ことであり、凡人には真似が出来ないのでしょう。ただ、作品を鑑賞して
> いるときにはその「狂気」の一端を伺い知ることが出来るのかもしれませ
> ん。ところで、このような「狂気」による創作というのは芸術家の全盛期、
> つまり中期までのことで、晩年の傑作には別の要素が関わっていると僕は
> 考えています。棺桶に半分足を突っ込んだような人間が素晴らしい作品を
> 残してから亡くなるというのはよくあることですが、この場合には神の世
> 界を見るとか、人間には立ち入ることの許されていない領域にまで足を踏
> み入れる(入神の域)という状態で、「狂気」とは少し違うと考えたいの
> です。このテーマについて触れると確実に止まらなくなってしまうでしょ
> うから、機会があればいつか書いてみたいと思います。 (98/12/04)

>> 「狂気」というのはそもそも何なのでしょうね。
>> この世界も人間の精神も、一定の法則に基づいて存在しているのは
>> 間違いないと思いますし、その意味では「狂気」というものもその法則
>> から逸脱したものではないように思います。
>> 「狂気」も「入神」も、人の精神の奥底まで入りこんだものであるという
>> 点では共通していると思うのですが……。
>> パールマンのバイオリンを「人間性善説を信じられる喜び」と賞賛する
>> 言葉を目にしたことがあります。
>> これは明らかに「入神」という部類に近いもののように思えます。
>> となると「狂気」というのは、まだ浄化され切っていない、善悪入り混じる
>> 「混沌」の極致ということにでもなるのでしょうか。
>> そして「狂気」が浄化されると「入神」になるというような……。

>  「狂気」と「入神」の違いについて僕が思うこと。前者は、しばらく行
> くけれども(ほとんどの場合は)再び戻ってくることができる「日常とは
> 異なる世界」であり、それは人間の内部にあるような気がします。一方後
> 者は、いよいよ向こう側に引っ越しするという段階に入って、この世とあ
> の世の境界が曖昧になってくるような状態であり、その世界は明らかに外
> 部に存在していると思います。つまり「狂気」は繰り返すけれども、「入
> 神」は(人により持続する時間は異なるとしても)人生の中で一回限りの
> ことと自分なりに定義しています。また「狂気」では理性も感情も超越(
> または消滅)しているが、「入神」では理性は残っているというより、ま
> すます冴えてくるのではないかと想像しています。どちらも経験したこと
> がないので、あくまで推測ですが・・・・・・・・
>  完全な「入神」の域に入って書かれたのではないかと僕が勝手に思うク
> ラシック作品には、ベートーヴェンの13番以降の弦楽四重奏曲、シューベ
> ルトの弦楽五重奏曲、ブラームスのクラリネット五重奏曲、R・シュトラ
> ウスの「4つの最後の歌」、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第15番や
> ヴィオラ・ソナタなどがあります。マーラーやブルックナーの9番はどう
> なのかと訊かれたなら、僕はわずかではあるが迷いを感じると答えます。
> シンフォニーをまだ作ろうというところに、僕が作曲家の煩悩を感じてし
> まうのでしょうか?(ただし、第1楽章だけが完成したマーラーの10番を
> 聴いた限り、もしあれが完成していたら「入神」の作品になっていたかも
> しれないとも思います。)また、ベートーヴェンやシューベルトの晩年の
> ピアノ・ソナタも、あともう一歩という感じがするのですが、それは僕の
> ピアノ曲に対する理解力の無さから来ているに過ぎないのかもしれません。
> ところでモーツァルトについては、どういう訳かそのような作品は思いつ
> きません。若くして死んだというのは、シューベルトがいるので理由にな
> りません。あの人の音楽には最初から人間離れしたところがあったからで
> はないか、などと無理に理由を付けてとりあえずは納得することにしてい
> ます。僕はモーツァルトに対しては(一部の人が言っているような)神と
> いうよりは宇宙人に近いイメージを持っています。
>  ここもだいぶ長くなったのでこの辺にしたいのですが、もう少し書くと、
> 人を感動させる音楽というのは、必ずしも「狂気」や「入神」に入らなく
> ともいくらでも作れると僕は考えています。ポピュラー音楽では大体そう
> でしょう。ただし、こと「芸術」に関する限り(あるいは芸術性が強い分
> 野ほど)「狂気」や「入神」に深く入り込めば入り込んだだけ、凄い作品
> が生まれることが多いということは言えそうです。  (98/12/11)

たしか「平明」あるいは「無色透明」のような表現を使っていたはずと思っていたが、改めて読むとそんな言い回しはどこにも出てこない。どうやら記憶違いだったようだ。(やれやれ。)まあ、述べたかったのは誰しも最晩年はそういう境地に近づき、音楽もどことなく似てくるということなので勘弁してもらおう。また「煩悩を感じてしまう」であるが、交響曲を書きたいという気持ちそのものが現世への執着であるという考えは今も変わっていない。なので、マーラーには歌曲集(それも「4つの最後の歌」に匹敵するようなのを)、ブルックナーには室内楽によって「辞世の句」を残して欲しかった。
 さて、そのバーンスタインがブルックナーの最後の交響曲である9番を2度にわたって録音している。「なんで?」と思った人は私だけではないはずだ。(CDジャーナルの「徹底聴きまくり」シリーズのこの曲の回にて、レギュラー執筆者の平林に加えて誰か忘れたが欄外を担当していたもう一人はバーンスタインの旧盤を挙げていたが、当時の私はバーンスタインが録音していたことが信じられず、一瞬自分の目を疑ったほどである。)全ての曲が名演であったかについては賛否両論があるとはいえ、彼が「マーラー指揮者」だったことに異を唱える人は多くはあるまい。「雑談その他」のページには「ブルックナー指揮者の定義」を載せたが、その3番目に「マーラーを得意にしていないこと」を挙げた。ブルックナーとマーラーの共感度において「総和一定の法則」が成立しているというのがその根拠である。にもかかわらずバーンスタインがブル9をレパートリーにしていたのは、(先述したように夾雑物=迷いが僅かに残ってはいても)かなり澄み切った境地に入って書かれただからこそという気がする。いわゆる「ブルックナー臭」が希薄なため、指揮者にとっても取っ付きやすかったからではないか。(逆に複数の「ブルックナー指揮者」が「大地の歌」の録音を残しているのも「マーラー臭」がさほどきつくないからだと考えている。)同じページに3番以降の7曲を一直線に並べ、少々強引ながらも「47系」と「58系」に分けたが、9番は「他の作曲家とのつながり」として直線上には載せなかった。繰り返すが、ブル9はマーラーの9番や「大地の歌」と(あるいは10番とも)連結しているような気がする。それゆえのレパートリー採用ではなかったか。プライヴェート盤が残されているという6番も中心付近(9番に近い)で比較的アクが少ない曲だから、おそらく同じ理由だろう。(ついでながら、カラヤンはバーンスタインほどの「偏食」ぶりは示さす、マーラーも4569番、そして「大地」を録音したが、特に9番が名演となっているのも彼にとってアプローチが容易だったからではないか。これでショスタコも14番とか15番を選んで振っていれば文句なしだったのだが、どういう訳かは知らないが唯一そして2度も録音したのが10番なので少々説得力に欠ける。残念!)
 さて、当盤はヤフオクで何となく入手したものの、特に聴いてみたいと思っていた訳ではなかった。さほど高くないスタート価格のまま無競争落札したものである。50代に入ったばかりという壮年期のバーンスタインの録音であるが、CBS時代に共通する元気ハツラツ型の演奏である。そういえば私は同レーベルによる「ベスト・クラシック100」シリーズの「マーチ名曲集」をアマゾン・マーケットプレイスにて購入したばかり(愛聴していたテープの老朽化による)だが、どうもこの頃の指揮者は何でもかんでも(ベートーヴェンだろうがスーザだろうが)同じ調理法と味付けで勝負を挑んでいるように思えてしまう。このブルックナーにしても。
 第1楽章の最初の1分は速めで時にリズムをしゃくり上げる。ところが、その後30秒ほどはノロノロ。「こういうのはマーラーならともかく」とついつい堅苦しいことを言いたくなってしまう。ただし、ビッグバンへの入りは悪くない。アホ加速しないのはもちろんとして、ゆとりを持って減速しているため聞き手も前につんのめったりしないで済む。(カーブの直前で急ブレーキを踏むようなヘタクソ運転手の隣に座っているような居心地の悪さは全く感じない。私は本来とても運転のことを口にする資格はないが・・・・)ところが全休止の後、3分34秒からは再度のノロノロ。これが数分続く。そして8分12秒からスタスタ。別指揮者2名による録音を継ぎ接ぎすれば間違いなく同じようなものをこしらえることは可能だろう。中間部ではテンポ改変が頻繁になり、しかもその幅も大きい。楽章終盤に入ると曲想の変わり目はおろか、途中でもお構いなく揺さぶりをかける。メータやシューリヒト、それどころかフルトヴェングラーすら真っ青になるほどの凄まじいテンポいじりである。ここまでやられるとブロック構造への配慮など端から持ち合わせていなかったと考えざるを得ない。(だから、一部乱心系指揮者による発作的テンポ崩しとも同列には扱えない。)しかしながら、これをブルックナーとして耳を傾けているから違和感を覚えるのであって、既所有の「オーケストラ音楽の楽しみI」に収録されている「セビリヤの理髪師」「ウィリアム・テル」序曲、あるいはビゼーの「カルメン」や「アルルの女」組曲などと同じく、舞台音楽の一部あるいはハイライト集と思っていれば結構愉しめる。暴言ついでだが、ひょっとすると実際バーンスタインにとっても映画音楽と大差ない作品という認識&心構えで録音に臨んだのかもしれない。
 思いっ切り失礼なことを書いてしまったが、第2楽章は一転して堂々たるもの。スケルツォの重々しいリズムは、あたかもDG移籍後の巨匠スタイルへの転身の予行演習をしているかのようだ。終楽章も劇的に仕上げようとした意図は十分に伝わってくる。だだし第1楽章ほどはテンポいじりを施す箇所がないため、面白さはイマイチである。これは指揮者にとっても甚だ不本意だったのではないか。それゆえ(←勝手に決めるな)、土壇場で一か八かの勝負に出た。22分08〜20秒のヴァイオリンを「普通演奏されているようにトレモロでただ適当に細かく刻ませるのではなく、記譜どおり32分音符の譜割りで弾かせている」(金子建志「ブルックナーの交響曲」51〜52ページ)。ただし、金子は「ブルックナー演奏の伝承という環境の中に育たなかったことが幸いし、却って楽譜をラディカルに読ませることになったのであろう」と考察していたが、後のVPO盤と比べるとはるかに控え目である。(ちなみに、この箇所について浅岡弘和は「あるいは金子建志氏の問題提起も旧盤がヒントになっているのかもしれない」と自身のサイトで言及している。)この期に及んで憂さを晴らす(←またしても憶測による決め付け)というのも大人気ないとして最後の一線で踏み留まったのだろうか? ならばメータのように30歳前後に録音する機会があれば、誰にも手がつけられないほどの暴君型演奏が成し遂げられていたかもしれない。そう考えたら残念な気持ちになった。ちょっとだけ。
 最後に録音だが、あまり良好とはいえずヒスも多い。ただしノイズ除去や強調処理などは行われていないようで耳には優しい。演奏も荒っぽいことは荒っぽいが傷(ミス)は特に聞かれなかった。なお、ライヴではないはずだが会場ノイズ(咳)の一部混入を確認した。

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