交響曲第5番変ロ長調
ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
91/11
elatus 2564-60129-2
旧盤(トータルタイム約75分半)よりも当盤(同約72分)はテンポが速くなっていると考えられ、「フルヴェン化」もより徹底しているといえるかもしれない。(ちなみにフルヴェンの42年盤は約68分半、51年盤は約70分である。)ということで、あっちのページで引いた海老忠のコメントはいちいち再掲しないが、信奉者バレンボイムが実際にどのような模倣ぶりを聴かせてくれているのか興味を持ちつつ聴いた。
第1楽章冒頭のゆったりした序奏に続けて2分39秒から加速しつつファンファーレになだれ込むところからして「そのまんま」である。以後も頻繁に加減速を繰り返す。けれども、いつしか「もういいや」という気分になってしまった。11分56秒以降の忙しなさ、14分35秒以降またしても加速しながらクライマックスに至るところ、そしてコーダのイラチテンポなど全て予想していた通りに進行したからである。こういう演奏は手の内がすっかり読めてしまったらつまらない。
中間楽章は悪くないが、軽快なテンポとオケの重厚な音色とのアンバランスが災いして印象はもう一つである。そして終楽章だが、御本尊の演奏は確か壮絶だったと思い出して42年盤を取り出して聴いてみた。中間部13〜14分台の忙しなさは他に例がないほどであるが、既に11分台から加速は始まっている。途中からヤバいと気が付いてブレーキをかけようとしたが既に手遅れで、もはや抑えが利かなくなっていたという感じだ。終盤17分47秒からコーダまでも凄まじい駆けっぷりで、テンポは20分18秒まで落ちない。そこでようやく我に返ったかのようである。ところが崇拝者の演奏では中間部も終盤もそのようなハチャメチャな加速は聞かれない。テンポいじりは頻繁に行われるけれども、常に節度を保って最後の一線を越えようとしていないのだ。第1楽章も同様である。いくら尊敬していてもあんな真似は恥ずかしくて到底やっていられないということだろうか?
「クラシックB級グルメ読本」(洋泉社)に荒俣育代が記した「クラシックの首を絞める者たち」は大変な力作である。(著者らしき人物がかつて某掲示板の許スレに登場したことがあったが、あれは本人だろうか?)その中の【参考:巨匠たちの亡霊】では現代指揮者(バレンボイム、メータ、アバド)によるフルトヴェングラー賛美が紹介されていたが、特にバレンボイムについてはスタイルの模倣に対して「形骸化したフルトヴェングラー」「要は仏つくって魂入れず」などとかなり辛辣なコメントが付けられていた。結局は「熱狂的な指揮者」と「熱狂的指揮者を演じている指揮者」の間には天と地ほどの開きがあるということで片づいてしまうのだろう。「いくら○人の振りをしても決して○人にはなれない」というのも思い出した。(喩えとしては不適切かもしれないが、フルトヴェングラーの無我夢中というべき演奏スタイルには何となく当てはまるような気がする。ついでに書くと、小林秀雄の「金閣焼亡」と思ってページを開いてみたら微妙に違っており、結局誰の言葉なのかは不明である。)また逆だと思われる方もいるだろうが、「自分から望んで」よりも「なにものかに強制されて」の方が集中して取り組むことができ、結果もはるかに優れていたということはなかったのだろうか?(私は何度も経験している。そういえば、朝比奈の3度目の全集も指揮者があまり録音に乗り気でなかったという36番の方が4789番より明らかに出来は良かった。)そうだとすれば、フルヴェン42年盤の「なにものか」は他人ではなく時代だったかもしれない。さらに「何かに取り憑かれて」が加わったら最強だろう。何にせよ、少なくともこのような激しい演奏スタイルの場合、「ものまね」では絶対にオリジナルを超えられまい。真似をする対象が頭の中にある限り、狂気じみたものが不足することは避けられないからである。そして、聴き手にとっては物足りなさだけが残る結果となる。
こうなると、4番と同じくオリジナルを忘れてしまうほど強烈なギラギラ演奏に仕上がっているかもしれないシカゴ響との旧録音を聴きたくなってきた。eloquenceシリーズあたりで廉価再発されないかな?
5番のページ バレンボイムのページ