Você e Eu(ボサノヴァと私)
2007
EMI 0946 3 92604 2 3(TOCP-70257)
ポルトガル語の "você" はスペイン語の "usted" と語源的に対応し字面も似ているけれど、その用法は少なからず異なっており、専ら二人称単数形の親称として(親密な間柄あるいは目下の者に対する場合に)用いられる。(ちなみに葡語本来の二人称代名詞である "tu" はブラジルでは滅多に使われない。初対面や目上の人に対する場合、つまり二人称単数の敬称「あなた」は "o senhor/a senhora" である。ついでながら、同国では二人称複数の "vós" も疎んじられているが、これは西語圏の中南米諸国における "vosotros/vosotras" と同様である。)だから原題を忠実に訳せば「あんたとあたい」ぐらいだろう。(もちろん "eu" が男性なら「きみとぼく」である。)また、ライナーに掲載されている歌手へのインタビューでも触れられているように、当盤にはボサノヴァ以外の曲も複数収録されていることを考慮すれば、邦題は改竄に限りなく近い暴挙のような気もしてきた。が、これ以上突っ込むのは止めておく。もっと気に触ったのは国内盤の名義が「テレーザ」だけになってしまっていること。曲目一覧の下に小さく「※日本語のアーティスト表記は、『テレーザ・サルゲイロ』から『テレーザ』に変更いたしましたのでご了承ください。」とある。私は声を大にして「誰が了承するか! 勝手に省略するなドアホ!!」と言いたい。ブランビッラやシュトルツなど既に同名のソプラノ歌手がいると思っていたが、調べてみたらポピュラー畑でもテレーザ・クリスチーナという女性シンガー&作曲家(1968年リオ・デ・ジャネイロ生まれ)が活躍中のようである。あの「セルゲイロ」という誤記に散々ケチが付いたため制作者は恐れをなしてしまったのかもしれないが、これでは余計な混乱を招くだけではないか!!!(激高) もちろん海外盤は "Teresa Salgueiro & Septeto de João Cristal" 名義であり、こんなアホな真似はしていない。
それはともかく、Septetoとあるようにジョアン・クリスタル(ピアニスト)をリーダーとする7人組との共演である。(なお「七重奏団」としないのは合唱のみの参加者1名がいるためである。)ブックレットによれば、使用されている楽器はギター、コントラバス、サックス/クラリネット(持ち替え)、チェロ、ドラムス、そしてピアノである。(ところが、そのような記載が日本語解説には一切ない。非常にケシカラン話だが、これも人名を正しくカナ表記する自信がなかったからに違いない。)既にその編成から十分想像できるはずだが、実際にも限りなくジャズに近い伴奏であった。
さて、ここからが本題である。トラック1の "Chovendo na roseira" を聴いて直ぐさま疑問に思った。「このような響きがサルゲイロと合うのだろうか?」と。特にドラ息子、いやドラムスの騒々しさは、既に発表されたマドレデウスのアルバム、あるいは "Obrigado" において類い希なる厳かさを誇っていた歌手とは「水と油」ではなかろうか。さらにクラリネットの人を食ったような音色は史上最悪ともいえるほどの相性ではないかと言いたくなる。(ついでながら女性合唱も平板に過ぎる。歌手を引き立てる役目を果たしているとはいえないどころか、ユニゾンで重なってくる部分は足を引っ張っているとすら聞こえてしまう。)とにかく賑やかで時にオチャラケとも聞こえるような音楽が多くを占めているから、正統的スタイルを貫いてきたサルゲイロは苦労の連続だったのではないか。そういえば許光俊が「クラシック名盤/裏名盤ガイド」でドイツ・リートの名手、鮫島由美子の「ゴンドラの唄〜日本抒情歌集」に収められた「銀座カンカン娘」を絶賛しつつ「まじめな人が突如ふざけると奇妙なおかしさがある。そんな風情に思わずうつむいてしまうのは私だけだろうか。」とコメントしていたが、当盤の歌唱が「おかしさ」未満の「違和感」レベルに留まっていると思ったのは私だけだろうか。これが "Obrigado" 収録の2曲で共演していたマリア・ジョアンあたりなら抜群のパフォーマンスを示すことができたのかもしれないが・・・・
トラック2 "Na baixa do sapateiro" には聞き覚えがあったので捜してみたらヴァレリア・オリヴェイラの日本デビュー盤 "Valéria" の冒頭に収録されていた。他にも当盤の22トラック(23曲)には既に当サイトで紹介した、あるいは今後採り上げる予定のブラジルの歌手/グループによるディスクを通して耳に馴染んでいるものが少なくとも10ほどあった。(購入後あまり聞き込んでいないアルバムもあるから、捜せばもっと見つかるかもしれない。)それらの内で「どうも感心できんなぁ」と思った歌唱(上記オリヴェイラも該当)と比較してもサルゲイロのカヴァーは特に優れているようには聞こえない。これは看過できぬ問題である。ただし「本場の歌手ではないから」で済ませてしまうのは安易に過ぎる。それを上手く説明できるような言い回しが今のところ見つからないのだが、強いて言えばブラジル人からは多かれ少なかれ感じられる一種の「野放図さ」が不足しているということになるかもしれない。「野趣味」と言い換えてもいい。あるいは「茹で過ぎてえぐみが完全に抜けてしまった筍を食べているような」とでも書けば伝わるだろうか?(もちろん前に槍玉に挙げた英語かぶれの誰かさんのごとく投げ遣りになってはいけないけれど。以下も余談:竹村淳が「ラテン音楽パラダイス」で紹介していたマリア・クレウザによる "Garota de Ipanema" を先日iTunes Storeで試聴したところ、前につんのめりそうな勢いで疾走し、時にリズム崩しまで聴かれたにもかかわらず不思議な格調の高さを感じた。また美声ではないが妙に説得力がある。それで少し前から気になっている歌手である。奇遇なことに実はこの人も "Você e Eu" というアルバムを出している。ただし、購入するなら竹村自身が選んだという21曲を収めた日本盤ベストと決めている。廃盤ゆえ中古市場でも定価を上回っているようだが、アマゾン・マーケットプレイスに予約注文を入れて気長に待っている。他には38歳の若さで他界したというクララ・ヌネスも発散されるエネルギーが尋常ではないため、やはり要注意人物であると考えている。そういえば "Atlântica" の曲目解説にて松田美緒が触れていたシンガーでもある。)インタビューで述べていたように彼女がブラジル音楽に敬意を払っているのは理解できるけれど、経験値の少ないジャンルゆえ手堅くまとめようとの意図が裏目に出てしまっているような感もある。そのせいか面白味にも欠けるのだ。先に使った「おかしさ」とはちょっと違う。「ボサノヴァにこんな切り口があったとは!」と思わず手を叩きたくなるほどの驚きをもたらしてくれるといった意味あたりか。もう少し続けてみる。
当盤の出来は偏に「サルゲイロの力量がボサノヴァという器に収まりきるか否か」に懸かっている。試聴前に私はそう考えていた。そうなると溢れ出してしまわぬようセーブした結果、こぢんまりしてしまったという見方もできよう。声域が(過去に記憶がないほど)低く設定されているのもその現れであると思う。例えばトラック6 "O samba da minha terra/Saudade da Bahia" の0分31秒あるいは0分43秒から "samba" を伸ばすところを聴いて、これまで非凡な才能を見せつけていた歌手の片鱗が少しでも窺えるだろうか? もちろん凡庸ではないが、またしても「こういうのは他人に任せておけば良いのでは」と思ってしまった。他の曲でもサルゲイロの歌唱が中音域に押し込められている場合は魅力を感じることができない。中でもトラック18 "Samba do Orfeu" などは低すぎてサンバの命ともいえる華やかさがまるで出ていない。いくら何でもこれはアカンやろ。もし3度でも上だったら相当違う結果になっていた可能性は高いが、今更言っても仕方がない。(何となくながら当盤が私以外の「マドレデウス掲示板」の常連さん達からもさほど支持されないだろうとの予感がしている。)
TVゲーム以外にプレーの経験が全くない私だが、ここでゴルフに喩えてみることにする。自分が得意とするアイアンでフルショットしても池を越えてグリーンに乗せるには少し足りないと判断したため、少し番手の大きいクラブに持ち替え、ハーフショットでピンを狙うことにした。ところが、そういった微妙な力加減というのは結構(プロですら)難しいので、案の定というべきかショートして池ポチャ。そんな感じだろうか? まあ当盤はそこまでボロボロではないからバンカーに捕まった程度かもしれない。何にしても首を傾げたくなるような箇所が何度か聴かれたのは事実である。やはり彼女には声域であれ技巧であれ限界に挑むような曲こそが似つかわしいと私には思われてならない。
ところが、このように文句付けまくりのアルバムながら音楽の質は決して低くないから全く困ったものだ。(完成度が低ければ好き放題に叩けるのだが・・・・・って別に困ることないか。)それどころか伴奏がピアノのみの9曲目 "Risque"、ピアノ&チェロによる13曲目 "Modinha" 、同じく17曲目の "Valsinha" からは並々ならぬ感銘を受けた。とくに深い情感を湛えた "Risque" は当盤屈指の出来映え。重苦しい曲調はどことなくエリゼッチ・カルドーゾの "Apelo" を彷彿させるが、次第に凄味までが漂ってくるという点であの大歌手の絶唱にも全く引けを取っていない。(次曲冒頭のアホクラで余韻がぶち壊しとなるが・・・・また "Modinha" も1分40秒と短すぎるのが惜しい。)さらに15曲目 "Insensatez" もピアノ、ベース、ドラムス(ここでは決してうるさくない)のいわゆるリズムセクションによる万全のサポートを受けた歌手がボサノヴァでようやく本領を発揮しているという印象だ。
一方、当盤で大いに気に入らなかったのは長調かつ軽快テンポの曲。イントロから先述のクラリネットがしゃしゃり出てくるため、決まってチンドン屋みたいな響きになる。その最たるものが終曲(トラック22)の "A banda" である。(曲名がそのまんまだ。)バックコーラスが「パッパラパー」などと茶々まで入れるようになれば、もはや完全なるお笑いの世界である。しかしながら、このような曲想はブックレット最後の2ページを使った見開き写真(歌手と演奏者が勢揃い)とは歩調がピッタリと揃っている。どうやらサルゲイロは "Obrigado" 評ページで指摘した「巨大化」の進行をどうにか食い止めることができたようだが、この何とも剽軽な立ち振る舞い(両腕を水平に大きく広げ微笑みを湛えている)の彼女は、まるで吉本新喜劇の座長がメンバーを紹介しているかのようである。それを眺めている内に、ひょっとすると次は「テレーザ、日本のコミックソングを歌う」と題する企画もの、例えば「1.笑点のテーマ」「2.スーダラ節」「3.金太の大冒険」「4.俺ら東京さ行ぐだ」「5.アミダババアの唄」・・・・・そして「ボーナス・トラック:アホの坂田の歌 〜 Special duet with Toshio Sakata」みたいな超「と」盤が世に出てしまうのではないか、という恐怖感(ハッキリ言って妄想)に囚われて目眩を覚えてしまった。その晩寝床で魘されたのは言うまでもない。(もちろん大嘘。そういうのが出たら出たで面白い。絶対買うぞ。)
何にしてもマドレデウスのヴォーカルとして「奇跡」という言葉を持ち出さずにはいられないほどの極上歌唱を聴かせてくれたサルゲイロゆえ、そこそこ上質の音楽であっても不満を覚えてしまうのは致し方ないということだろう。それ以前に何でもかんでも(この種のアルバムにまで)緊張感や神々しさを求めたがる私の方が間違っているのだろうが・・・・ひとまず平均80点として秀逸トラックによる上積み分(1曲が100点、3曲が90点)を加えて82点とする。
おまけ
日本語解説を手がけたのはあのH、ただし「ミスコン」(Miss Concept)ではなく男の方(ヒイラギフコオ)である。これで2作連続となる訳だが、結論から言えば「頼むからもうやめてくれ」ということになる。(ダイエーホークス時代にそんな横断幕が福岡ドームの外野席に飾られたこともあったっけ。)
最初の段落にある「清流のように清らかで」でいきなり語彙の乏しさを露呈している。直後の「蝶の羽音のように愛らしい」には思わず「オマエ聞いたんかい!」と問い詰めたくなった。ちなみに彼は "Obrigado" の曲目解説にて「ミツバチの羽音のように軽やか」という比喩を使っていたが、養蜂の手伝いをした経験のある私に言わせれば、昆虫の羽音というのは何であれ騒がしさを形容する場合にこそ用いるべきである。(「蜂の巣を突いたような」という慣用句だってあるのだし。)
中ほどで当盤の楽器編成がマドレデウスのそれとは異なる点に言及していたが、そこで「変化」という単語を持ち出しているのも気になる。「肥料を与えた後の葉色の変化」のように同一物の連続的な移り変わり(折れ線グラフで表すべきデータ)に対して用いられるのが「変化」(change)である。今回のケースでは「肥料レベルによる収量の違い」(棒グラフで表すべきデータ)と同じく、あくまで別の団体による伴奏にサルゲイロがどのように対応するかを論じようとしているのだから、「違い」または「差異」(difference)を使う方がはるかに適切であると思われる。(職業柄ついつい突っ込みたくなった。)
ラス前の段落ではマドレデウス名義のアルバムと当盤の音楽性の違いについて述べられているが、中身はともかく最後を結ぶ「その心地よさは、今回の試みで得られた音楽的成果だろう」という一文が思いっ切りヘン。「音楽的成果」を「心地よさ」だけで片付けてしまっていいはずがない。それよりもマドレデウスで歌う時より没個性的であるとの見解を間接的ながら示しているのが不可解。まさか最初から褒め殺すつもりだったのだろうか? また最終段落ではC・A・ジョビンの生誕80周年に当たる今年(2007年)に相次いで発表される(註)ジョビン、ボサノヴァ関連の作品群の中でも当盤が突出しているとの記述がある。(註:原文でも現在形が用いられている。「発表されることになっている」ではない。何にせよ本当に聴き比べた上で「突出」などと断言しているのだろうか? ついでだが「傑出」の方がいいと思うぞ。)そこまでは悪くないが、やはり結文の「ワールド・ミュージック界全体においても今年の音楽的収穫の一つといえるだろう」が大変いただけない。「派手に持ち上げた割には随分と矮小化してくれるじゃないの」と嫌味を言いたくなってしまった。これが当サイトの作成者なら「反収20俵を優に超えるほどの大豊作」などと書いたことだろう。たとえ一部読者にしか理解してもらえなくとも。要は前提と結論の釣り合いがまるで取れていないということである。ふと高校地学(地層の授業)で習った不整合を思い出した。
救いはこのお粗末極まるとしかいいようのない解説が全体の1/4以下だったこと。続いてサルゲイロの電話インタビューが一部掲載されている。聞き手は歌詞対訳も担当した國安真奈(翻訳家)で、なかなかに興味深い内容である。(抜粋したのはヒイラギかもしれないが、特に不快感を覚えるような記述は見当たらなかった。)
半分弱を占める楽曲解説にも問題は少ない。全ての曲について短いながらもコメントされており、資料としての価値は一応ある。(余計なことを書かなければいいのだ。)ただしラストを飾る "A banda" について「軽快で弾むようなリズムに乗って、さわやかに歌い上げている」と紹介するのは良いが、締めの「まるで、ブラジル音楽の旅の名残を惜しむかのように」でガクッと来た。またもや腰砕けである。本文中で述べたように、これは笑いを誘わずにいられない音楽である。(歌詞を見ればそうでもないが。)あるいは「これでようやくポルトガルに帰れるわ」と喜色満面のサルゲイロを思い浮かべてしまうような。どう考えたって「名残を惜しむ」に対応するのはシンミリした調子の曲だろう! ちょっと想像過多および八つ当たり気味なのでもう止めることにするが、女のHと同じく国語力に加えて論理的思考力も欠如しているようだから、学生時代には数学もサボっていたに違いない。(←人のこと言えた義理か。)何にしてもアマチュアに相応しいライナーを提供してくれたことは確かである。
最後にもう一つ。ペンネームに続けて括弧に入れられた "from just music lovers" という文字列は何が何やらサッパリ解らない。もしかして自分が「ジャスト・ミュージック・ラヴァーズ」という名称の会社なり組織から来たとでも言いたいのだろうか?(万が一にも "Obrigado" のライナーで名乗っていた「音楽愛好家」の英語表記のつもりだとしたら笑止千万である。粗悪な翻訳ソフトを使えばこんなんが出てくるのかもしれないが・・・・)それにしても一体いつになったらマドレデウス/サルゲイロ関係の国内盤でまともな解説が読めるようになるんだろう、と考えたら気分が沈んできた。(身売り後も期待薄だな。)
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