O Espírito da Paz(陽光と静寂)
1994
EMI 8300462 (TOCP-8260)
ドイツのソプラノ歌手、エリーザベト・シュヴァルツコップが今年(2006年)8月3日に亡くなった。享年90歳。存命であることは知っていたけれども、何せ歳が歳だから「ついに来るべき日がやって来たか」という印象である。しかしながら、既に引退(歌劇場からは1976年、歌曲リサイタルからは1979年)してから四半世紀以上が経過していたということもあってか、わが国の各種メディアの扱いは(20世紀を代表する大歌手の1人だったにしては)極めて小さいものと思われた。それゆえ私は一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。謹んでご冥福をお祈りする。
さて、マドレデウスとは直接関係のない話から始めたのは、もちろんそれなりの意図があるからである。ラジカセから流れてきた「4つの最後の歌」(R・シュトラウス)を聴いて、私はそれこそハンマーで脳天をガツーンとどやされたほどの衝撃を受けた。(私に羞恥心がなければ「脳味噌に手術を受けたような」云々と書いたことだろう。)それは大学院生時代のことで、実験室で午後のクラシック番組を聴きながら何かの調査をしていた時のことだったが、その後は腑抜けのようになって何も手に付かないまま1日が終わってしまった。歌っていたのはルチア・ポップ、指揮者はクラウス・テンシュテット(&ロンドン・フィル)だった。今ではともに故人である。(もちろん偶然だろうが、)放送日から1ヶ月も経たない内に歌手逝去の報を知り、何ともいえぬ気味悪さを感じたこともよく憶えている。(調べてみたらポップが没したのは93年11月12日だから、博士後期課程2年次の秋ということになる。)その歌曲集を求めるべく翌日に大学生協のカウンターに走ったのは毎度のことである。が、注文したのは別の演奏者によるディスクだった。前の晩にチェックした音楽之友社「名曲名盤300」で評論家から圧倒的支持を集めていたからである。(今思うと情けない限りだが、当時は世評を鵜呑みにしていた。)それがシュヴァルツコップ盤(伴奏はセル&ベルリン放送響)だった。何度聴いても鳥肌が立った。(それが誤用と言うんなら「さぶイボが出た」でも構わない。)やがて「これは歌曲集としては人類史上最高の傑作ではないか」とまで思うようになった。(何とも癪だが、後に宇野功芳が「クラシックの名曲・名盤」にて「この世にあるすべての音楽の中でも、たぐいまれに美しい至高の芸術だと思う」と評しているのを見つけてしまった。)知人宛の手紙に「人類が滅びない限りは永遠に聴かれ続けるであろう音楽」と書いた記憶もある。
その(おそらく)2年後に当盤を聴くことになる。既に述べたように冒頭(トラック1〜4)に収められている "Concertino" から受けたインパクトはメガトン級だった。そのため、私は「『4つの最後の歌』と『コンセルティーノ』は20世紀が生んだ歌曲集として双璧をなす」という意見を当サイトはもちろん、あちこちで吹聴、いや主張してきた。が、最近の私は異なる見解を持つようになっている。というのも、両者とも4曲からなるとはいえ、そして完成度も全く互角であるものの、後者は最初の2曲("Minuette" と "Allegro")が純器楽曲だし、後半の "Destino" と "Silêncio" が一続きで演奏されるため実質的には歌曲1曲分と考えられなくもない。つまり、複数扱いである「集」の妥当性に疑問を抱くようになったのだ。(その点、トラック9〜11の "Tres ilsões" は文句なしだが。)ということで、マドレデウスには正真正銘の「21世紀最高の歌曲集」を世に出してもらいたいと切に願っている。
ところで、ある日私は「4つの最後の歌」シュヴァルツコップ&セル盤と当盤の構成が非常によく似ていることに気が付いた。冒頭に極めてインパクトの強い歌曲(集)を収め、その後も名曲がズラッと並んでいることである。ただし前者には問題がある。「4つの最後の歌」以降はシュトラウスの作った膨大な歌曲から傑作(特にトラック9「子守歌」とトラック10「あした」が秀逸)をピックアップしているものの、やはり寄せ集めの感は否めず統一感がやや希薄である。マイナス3点。さらにトラック5「母親の自慢話」のイントロがアッケラカンとしているため、大傑作を聴いた後の余韻が吹き飛んでしまう。ゆえに「生きるとは」「死ぬこととは」について真剣に考えるために「4つの最後の歌」を聴こうとする者は、絶対にプログラミングしておくことを怠ってはならない。(予め青裏に焼いておく手もある。)その作業の煩雑さによりマイナス1点とする(よって96点)。おっと、ここはクラシックCDの採点をするページではなかった。なので話を戻すが、その点で当盤は全く問題ない。これがオリジナルアルバムの強みというものであろう。以降、"Concertino" から順に述べてみる。
この曲は何といっても器楽アンサンブルが素晴らしい。1曲目 "Minuette" はギター2本による掛け合い、続く "Allegro" ではアコーディオンが効果的な合いの手を入れる。このように最初は抑え気味にして3曲目 "Destino" から2本のギター(それぞれがトレモロおよび3拍子のリズムを担当)とアコーディオン、チェロ、キーボードというフル編成になる。それにしてもイントロのハーモニーは何度聴いても溜息が出る。思わず「何もつけ加えたり、削ったりしてはならない」と言いたくなるほどの、まさに聖書のような最強の布陣である。(現代の作曲家がこの編成による室内楽を書こうとしないのが不思議なくらいだ。メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」のヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノによる響きも衝撃的だったが、そのはるか上を行く。)そこに、「これ以上早くても遅くてもいけない」としか言いようのない絶妙のタイミングでサルゲイロの歌が入ってくるのだから、これはもう鬼に金棒、ゴルゴ13に斬鉄剣である。(←使えるんかな?) 「美しい」という形容詞が陳腐に思えて仕方がないし、自分の語彙不足に歯痒くもなってくる。あまりの高密度ゆえ5分余りがあっという間に過ぎてしまう。終曲 "Silêncio" は紛れもなく事態の収拾をはかるためのエピローグである。これがないと "Destino" によって別世界(非日常の世界)へと連れて行かれた魂が戻ってこられなくなってしまう(=抜け殻となった肉体のみが残る)ため、廃人となるリスナーが続出したに違いない。それを危惧した作曲者の配慮によるものである。それは私の勝手な妄想であるが、このお陰で "Os senhores da guerra" との接続が上手くいっているのは間違いない。
次の "Pregão" は異色作。おそらくマドレデウスの全作品の中でも、その点で一二を争うだろう。前半部分は何ともいえず不気味だが、あるいは戦争を歌った前曲に続く「レクイエム」として位置づけられているのかもしれない。テンポが少し速くなってからは不安定な曲調となり、解決することなく曲は締め括られる。これら2曲では焦燥感が主題となっているように思う。(クラシックでは「惑星」(ホルスト)の「火星」、あるいはブルックナーの第9交響曲の第2楽章に近いだろうか?)
トラック7 "O mar" 以降の曲は寂寥感タップリである。あたかも大惨事、いや第三次世界大戦の後たった1人生き残った人間がトボトボと廃墟を歩くがごとく。"Tres ilsões" の3曲目 "Amargura" (トラック11)のみ長調だが、雰囲気はちっとも穏やかにならない。聴き進むごとに身が引き締まる思いだ。あまりの緊張感のため、ついには息苦しさを覚えてしまう。私はかつて「後半は時に単調と感じることがあるのが惜しい」などとKさんに語ったはずだ。しかし、それは若さゆえの過ちだったと反省している。むしろ厳しさを徹底的に追求した必然の結果と捉えるべきである。今は閲覧不能だが、首都圏在住Sさんの批評ページでは、曲ごとのコメントが「もうやめてくれ」「俺を殺す気か」のように次第に悲痛さを増していったと記憶している。彼のように身の危険を感じつつ聴く。そこまでいかなくとも、せめて背筋をピンと伸ばして再生に臨むべきであろう。間違っても当盤に「癒し」など求めてはならない。とにかく完成度と統一感という2点においてマドレデウスの全作品中で群を抜く。大傑作である。
ところが、そんな会心作にもアキレス腱があった。それがトラック16である。つまり "O pastor" が明らかに余計なのである。サルゲイロの声域が相当違う(低い)し、それ以前に曲調が全く異質である。この夾雑物のせいで統一感がどれだけ損なわれてしまっているか。見識のまるで欠如した制作者に対して苦言を呈さずにいられない。(そういえば夏川りみのアルバム「てぃだ 〜太陽・風ぬ想い〜」にも元々「南風」に収録されていた「涙そうそう」がボーナストラックとして加えられているが、いくらヒット曲だとしてもあんまりだと私は憤らずにいられなかった。)もう1つ腹立たしいことがある。後で入手した国内盤のオビには「日本盤のみヒット曲『海と旋律』収録」とある。ところが何のことはない。輸入盤にだってちゃんとオマケは付いてるじゃないか!「まったくのデタラメ」(←タモリ口調)もいいところだ。この際ついでにもうちょっと難癖を付けてみる。
解説執筆者の金沢英子は終わりの方で「リスボンのマドレ・デ・ウス教会でデビューを飾った」云々と書いている。アホだ。「"Madre de Usu"・・・・ハァ?」(←少し古いが摩邪口調で)一体全体ポルトガル圏のどこに臼などという固有名詞が(地名にせよ人名にせよ)あるというのか? 私は南米滞在中に参列していたカトリックのミサにて "Santa María, madre de dios" という祈祷をしょっちゅう聞いていた(ちなみにカトリックではマリア信仰が大変強く、下手をするとイエスよりも崇拝されていたりする)から、金沢の軽率プレー(短絡的に「デ」を前置詞の"de"と誤認)にすぐ気が付いた。言うまでもなく正しい呼称は「マドレ・デ・デウス(Madre de Deus)」であるが、それ以前にネーミングの由来となった "Madredeus" は教会の名前ではなく地名である。つまり金沢は二重の過ちを犯していたのである。ついでながら、pt.wikipedia.orgには "o Teatro Ibérico (antiga igreja do Convento das Xabregas, no bairro lisboeta da Madredeus)"とある。グループのネーミングは結成当初の仕事場だったイベリコ劇場(かつてシャブレガス修道院の教会だった建物)の所在地がリスボンのマドレデウス地区だったことに由来している。その点「海と旋律」(Existir)のブックレット3ページに掲載されているライナー(執筆者不明、あるいは翻訳?)は抜かりがない。それを、あるいはデビュー盤 "Os Dias da MadreDeus" の英文解説を読んでさえいれば、あんな過ちを犯すはずがない。(ただし最初の方は誤植の可能性も捨て切れない。何せレーベルがレーベルだから。もしそうだとしたら「例によって杜撰な仕事ですなぁ、東芝EMIさん」と言わせてもらうのだが。よって灰色決着としておくが、後の方については明らかに手抜きなので弁解の余地なしである。ところで、金沢の解説は「疲れ果て傷ついた心と体を癒す祈りの歌」「安らぎを求めている」「魂を浄化してくれる」など、まさに常套句のオンパレードといった感がある。当時はこの程度でも通用したのである。いい時代だった。)
ということで、海外製作盤は異物混入罪による2点が引かれ惜しくも98点となった。さらに国内盤はボーナストラックの詐欺疑惑(マイナス2点)と解説中の失策(マイナス1点)も減点対象とせざるを得ないから95点としておく。
最後に今更だが、当盤の邦題は「ひかりとせいじゃく」と読むのが正しいらしい。私はKさんのサイトを訪れるまで知らなかった。さらに「ひかりとしじま」と書いていた人もおり、二度ビックリしたが、さすがにそれはないらしい。
おまけ
「4つの最後の歌」の第3曲「眠りに就こうとして」(作詩はあのヘルマン・ヘッセ)の最終節(第3節)はこうである。
Und die Seele unbewacht
Will in freien Flügeln schweben,
Um im Zauberkreis der Nacht
Tief und tausendfach zu leben.
その日本語訳(by 西野茂雄)はコレ。
そして、魂は誰にも見張られることなく
自由な翼を張って漂よおうとしている。
夜の魔術的な世界の中で、
深く、千倍にも生きるために。
既にお判りだろうが、本文中の「魂が連れ去られる」云々という発想がこれに感化されたことによるのは明らかである。読んでいるだけで背筋がゾクゾクしてくるではないか!(是非ともディスクを聴いて超弩級の寒気を感じてもらいたい。)ところが、この詩が渡辺護の手にかかるとこうなってしまう。
そして魂は思いのままに
その翼をひろげて飛び、
夜の魔法に魅せられ
深く、とこしえに生きようとする。
さすがは「カラヤンの太鼓持ち」こと渡辺、原詩に忠実な訳を心懸けたようだが、無難な仕事に終始したという感は否めず、まるで面白味がない。それ自体が立派な文学作品となっている西野訳と比べたらカスもいいところである。陳腐な比喩かもしれないが、印象は四尺玉と線香花火ぐらい違う。
おまけのおまけ
もう15年以上前のことである。研究室の後輩(現在海外在住)が好んでいるという音楽を試聴させてもらった私は唖然とした。歌うというよりは何かを喚き散らしているように聞こえ、あまりの騒々しさに閉口するしかなかった。(名指しで非難しないのはネット知人にもその音楽集団のファンがおられるからである。)彼によると「詩がいいんです」ということだったが、それが聞き取れなければ意味がないではないか。また昨年(2005年)冬には先の男と同じ国に住んでいる別の後輩が一時帰国していた際に「ナンバーワンがどうのこうの」という歌謡曲を私に薦めた。いわゆる「ジャニーズ系」のうちでも特に根強い人気を保っているグループがカヴァーして大ヒットさせた曲であることは(Jポップにどうしようもなく疎い人間ながら)知ってはいたが、とてもプロのレベルに達しているとはいえない彼らの歌を聴こうという気にはどうしたってなれない。当然ながら断ったが、その時も「詩がいいんですよ」と食い下がられた。(ちなみに、この歌詞については賞賛一辺倒ではなく批判も相当多いらしい。)が、ぼくに言わせればたった一言で終わりである。
ならば詩を朗読(あるいは鑑賞)していれば良い。
私が聴きたいのはあくまで「音楽」であって、間違っても「音苦」(騒音やヘタクソな歌)ではない。日本語の美しさを台無しにする連中なんてサイテーだよ。(こうやって世間を狭くしている私だ。)
おまけのおまけのおまけ
上の「世間を狭くする」についてKさんへのメールに書いていたことを思い出した。捜したら出てきたので載せてしまおう。(そっくりそのままコピペはしないと宣言したけれど、傍流の傍流のそのまた傍流で使うのだからまあいいだろう。)なお、二重の引用記号は私の執筆分、次はそれを引いてのKさんのレスである。
>> 僕が芸術に対する態度は以下の言葉で言い尽くせます。
>> 「薬にも毒にもならないものなんか要らない!」
>>
> このように自信を持って言い切れるのは羨ましい限りです。
> 私などは諸々の芸術作品に対して評価を誤って、
> 優れたものを切り捨ててしまうのをとても恐れています。
>
実のところ、僕も単なる食わず嫌いで優れたものを切り捨ててしまうこと
は結構あるのだろうと思っていますが、あまり気にはしていません。とにか
く、僕は自分の耳あるいは感性というものに従います。周りがいくらいいと
言っていても、僕を感動させないものはさせないのだから仕方がありません。
批評で飯を食っている評論家ならともかく、趣味の域を出ていないのだから
これでいいと思います。また、優れたものを誤って切り捨ててしまったとし
ても、また拾い上げる可能性がないわけでもないし、それよりもダメと思う
ものを思い切って切り捨てることをためらううちに、いつしか感性を鈍くし
てしまう方が僕には恐ろしく思われます。
次に、僕もナンセンス必ずしも無価値ならずと思っています。現代音楽に
はナンセンスとしか言いようのない作品がかなりありますが、中にはナンセ
ンスすぎて「くだらねー」と思わずバカ笑いしてしまうようなものもありま
す。そういった作品は僕にとって決して無価値ではありません。ただ、そこ
に価値を見出すのも僕は直感・感性だけを頼りにしています。
小林秀雄氏が「音楽を理解するとは作曲者が表現しようとした意志に近づ
いていくことだ」というような意味のことを書いていました。僕はここに作
曲者だけでなく演奏者の意志も加えたいと思っています。(クラシック音楽
では演奏者よりも作曲者、ポピュラー音楽では作曲者よりも演奏者の意志が
比較的大きい比重を占めると思いますが、いずれにせよ)そういう演奏者・
作曲者の意志に近づいてみたいと聴き手に感じさせる音楽は優れており、そ
うでないものには価値がない、と断言しても良いのではないかと考えていま
す。これはどんな芸術にも当てはまるのではないでしょうか?
ところで、先日僕がクラシックやラテン音楽ばかり聴き、日本のヒット曲
を聴こうとしないのを知っているある人間から、「何故わざわざそうやって
世間を狭くするようなことをするのか」とやや批判めいた口調で言われまし
た。しかし言わせてもらえば、僕はジャンルにしがみつくようなことはして
おらず、良いと思ったものなら何でも受け入れてきました。今もCDジャーナ
ル付録のNONSUCHレーベルのカタログを見て、現代音楽や世界の合唱音楽
を何枚か注文しようと思っています。(ジャズも多分聞き出すとのめり込ん
でしまうだろうと思います。マイルス・デイビスのテープを貸してもらって
感動しましたから。これ以上はまるものが増えると収拾がつかなくなるので
敢えて遠ざけています。)むしろ、確かに数として多いのは事実だけれども
日本のヒット曲やせいぜい英語のポップスしか聴こうとせず、その枠を越え
ようとしない人間の方が、汲めども決して汲み尽くすことのできない素晴ら
しい音楽の世界を狭めているのではないか?これは誰がなんと言ってもそう
なんですよ。
とにかく、前から言っているように歌手だけでなく聴き手の方も我が国は
大丈夫か、と思ってしまいます。昨年、エンヤのベストアルバムを衝動買い
したのですが、何人かの知人が希望したので貸してあげました。そして、エ
ンヤが好きならこっちはもっと気に入るだろうと思って、"O espiritu da paz"
も貸したのですが、「眠くなる」、「どれも同じに聞こえる」、「印象に残
らない」など評価は散々。僕はエンヤが何故こんなに日本で支持されている
のか解りません。(もちろん悪い音楽ではないですけど。)ただネームバリ
ューに押されて何となく聴いているだけで、本当の良さは解っていない人が
大部分なのではないかと想像します。以下に、以前ある掲示板に書き込んだ
メッセージを載せて結びます。「ここで言いたいのは、みんなが聴いている
からとりあえず聴くけど、ブームが冷めればもう聴かないというのは何か情
けないなと僕は思わずにいられないということです(グレゴリアンチャント
とかアダージョのブームなんてみんなそう)。本当に良いと思ったらそれに
深入りしなければ嘘だと思います。そして本心から良いと思わないものなん
か最初から聴くな、と言いたくなります。」
送信年月日は98年11月26日だが、許光俊の音楽評論に触れる前から自分がこういう(ある意味傲慢な)考えを持っていたとは意外だった。ところで、直上のメッセージを書き込んだ途端、それまで意見交換していた掲示板(南米関係)の管理者から完全に干されてしまったことを今思い出した。このアホンダラが。(←もう遅いって)
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