Greatest Hits (Le Cose Non Vanno Mai Come Credi)
2002
BMG 74321 94359 2
冒頭に収められた "Vivi Davvero"(2002)は早口で話すかのような歌い方、チャカチャカリズム、そして電気楽器によって随分と騒がしい音楽となっている。こういうのは私の好みからは相当遠いのであるが、驚異的な完成度の高さを示しているため文句を言う気は失せる。が、真に感銘を受けたのは次の "E poi"(1994)である。サビの高音部で例の "Vivo per lei" と同じく朗々たる歌唱を耳にした私は完全に脱帽、そして頭が下がる思いだった。続く "Come saprei" を聴いたらひれ伏したくなった。
彼女の声は美しいことは事実だが、「超美声」というほどのことはない。むしろドスの聴いた中低域の方に耳を惹かれる。さらに高音域でも安定感がいささかも減ずることがなく(ましてや裏声で逃げるような真似は絶対しない)、それどころか輝かしさを増してくることに感心させられる。ひとまず音が出ている(ただ叫んでいる)だけと聞こえるような凡庸歌唱とはまるで次元が違う。ということで、かなり前にNHK-FM「日曜喫茶室」で聞いた話を持ち出してみる。
オペラ歌手の松本美和子がゲストだったと記憶しているが、イタリア人女性は話すときに嬌声(裏声)を全く使わないそうである。例えば電話を受ける場合は低い声で "Pronto" であり、甲高い「もしもし」とは全く異なる。実は私はこの種の声が生理的にダメである。例えばあの不自然極まりない「ピンクの電話」の片割れのしゃべりを耳にして不快感を抱かずに済ますことは非常に困難である。(先の「電話」からつい連想してしまったが、脳内に響いただけでも苛ついてくる。)畢竟はアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉親父の声と一緒じゃないかさえ思っているほどだ。そういえば斎藤晴彦も同様らしく、彼が86年に発表したパロディアルバム「音楽の冗談」のトラック13に収録されていた「ラーメン生誕80周年奉祝!」では「ハイドンのセレナード」(実際にはホフシュテッター作曲)のメロディに合わせて「若い娘の嬌声も気にかかる」と歌っていた。それはさておき、「はしたないから」という理由で嬌声を強制されることが少なくないらしき日本人女性とは対照的に、あちらの国では幼少時から地声で話す内に声帯が頑丈になっていく。それでこそ体全体が響くような圧倒的な歌声が出せるのだ。そんな結論だったはずだが、当盤の序盤から既にタジタジとなった私はそれを思い起こし、そして納得してしまったという次第である。かすれ気味で少々線の細い感じがするパウジーニにしても、ここぞという時の迫力には不足なく、やはり相当鍛えの入った声であるとの印象は変わらない。(何となくながら2人とも普段は重心の低い濁声で話すような気がする。唐突ながらパヴァロッティの話し声はガラガラでハッキリ言って悪声である。)きっと私が知らないだけで、同レベルの歌い手がゴロゴロしているに違いない。さすがは「歌の国」イタリア、恐るべしである。(これよりワンランク下の歌唱力でも日本なら十分に実力派として通用するであろう。口先だけでボソボソ歌っているような連中を蜘蛛の子のごとく蹴散してしまうと想像するのも愉快だが、いっそのこと大挙押し寄せてきて下手糞どもを一掃してくれんかな?)もし最初にのめり込んだのが(中南米やイベリア半島でなく)この国のポピュラー音楽だったとしたら、CDのコレクションが今の何倍にも上っていた可能性は高い。
戻って4曲目 "E c'è ancora mare"(1995)はリズムが耳に煩わしいためイマイチだが、次の "Strano il mio destino"(1996)はジョルジアが超人的歌唱力を遺憾なく発揮することができる名曲である。思うに当盤収録中でも比較的初期の録音の多くからは良さがストレートに伝わってくるようだ。その典型が先述の"E poi" で、最後(トラック17)に収められた2002年ヴァージョンより断然上出来である。
当盤の最大の問題点は失敗作(と敢えて断言してしまおう)の「チョコレート食べ過ぎ」から4曲(トラック6〜9)も採用していることだ。なんで? 連続しているので飛ばすのが容易なのは救いだが。2年の空白期間を置いてリリースされた "Girasole" からの3曲(同10〜12)で完全復活を示しているのは嬉しいが、2001年のアルバム "Senza Ali" からの抜粋曲(同13〜15)および2002年のシングル曲(同1、16&17)は質こそ十二分に高いけれども、既に述べたように捻りが利きすぎてゴテゴテしているという恨みが残った。
ということで、ベスト盤の宿命ではあるが収録曲全てに満足できた訳ではない。17曲について5段階(60〜100点まで10点刻み)で点を付け、平均したら結局81点にしかならなかった。この人の会心作を聴いたら躊躇せずに満点を出すだろうとは思っているが、今のままの芸風では難しいかもしれない。
おまけ
「クラシックCDの名盤 演奏家篇」(文春新書)の共著者の一人、福島章恭(音楽評論家、合唱指揮者)は、「西洋音楽の敵」と題するコラムにこんなことを書いていた。
民謡や浪曲を思い出すまでもなく、日本の伝統的な発声法はノドを絞りに絞る
(特に高い声は、ノドを締め上げる)というベルカントとは正反対の方法である。
一般の日本人には普通のこと(だから<モーニング娘>を聴いても発狂しない)
だが、西洋人には理解不能の未開の声、野蛮の声なのだ。
(註:上の「モーニング娘」は原文ママである。ちなみにATOK2007では
「もーにんぐむすめ」と打って変換すると勝手に「。」が入る。)
その後、安土桃山時代に聖歌を教えていた宣教師が本国に書き送ったという「日本人の歌声は我慢できない」とのコメントも紹介していた福島だが、とりわけ上記エンターテインメント集団(音楽集団に非ず)の声は普段から相当腹に据えかねていたに違いない。(ところで彼が「まさに天性の歌姫 (ディーヴァ) であり、見れば見るほど惚れ惚れするではないか」とまで褒め讃えていた某女性歌手はどこへ行ったのだろうか?)
かくいう私も名盤「三大テノール世紀の共演」(90年の初コンサート)によって歌の素晴らしさに開眼した者である。それゆえ、わが国の大多数の歌手/グループによる歌唱をいつしか「聴くに堪えない」、良くてせいぜい「聴く価値がない」と見なすことになったのも当然の成り行きということになろう。
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